SFファンタジーな三菱UFJ emaxis neo

投資のことなど考えるのは頭の中に空いているほんの隙間ですればいいくらいに考えていて、以前は博打のように個別株に投資して夢中になっている時期もあったのだが、それはそれで経験にはなるし、新聞は読むし、しかし新聞は取ったことはないが、ここぞという時はそこへ投資する時はある。しかし、日がな一日それのことを考えてしまっていては、本来やるべきことが手につかず一日を終えてしまい、しかし金はやはり金であってよほどの資産家でもない限り(資産家でも投資に夢中であるが)上手く生きていくには、そこからは逃れられない。というか、やらないという選択は自分にはない。なんだか真剣な投資家からは叱られそうな姿勢である。ていうかこんなの遊びじゃんね、人生も半分は遊びでしょ、どうせ。

そんなことを真剣に考えるよりも、自分はサングラスを新調しようと本当は都内で探そうかとも思っていたのだが、近所の眼鏡屋を物色しているとなかなか品物が置いてあり、Eyevanにするかオリバーにするか、試着していると何故だかGUCCIの形が自分に似合っており、いやGUCCIはちょっとなぁ、それよかはオリバーピープルだと迷っていればあれこれ話に乗ってくれた店員が、その形で在庫を何種類も取り寄せて準備するということに。やっぱりこの世はネットショッピングでは測れない昭和的なやり取りが必要になってきたりすることが稀にあり楽しい。全く関係のない話になってしまった。

話を戻すと今この混乱の中(何だか混乱って言葉を本当によく使うな、)人々が困っていることと言えばやはり金のことであろう。やはり投資による資産運用は昔から必要不可欠ではあったのだ。しかし、不思議がられるかもしれないが、僕はそこから少し離れたいとは前から思っていたのだが、(これは頭の中の情報量を減らして集中力を他のこと、例えば音楽や料理、映画や散歩など、笑。へ使いたいだけなどの理由だ)しかし最近のETFは種類も多く、よくできていることから少しくらいの信託報酬を払うくらいでチャートを眺める時間を大幅に減らせるということができるのならと、大体の投資先を投資信託にするようになった。

そこで昨年くらいに気になっていたのが、三菱UFJのeMAXIS Neo。これは、未来のテクノロジーに投資をするファンドで、何種類かの分野に分かれている。そのジャンルが面白いのだが、「遺伝子工学」、「ロボット」、「宇宙開発」、「ドローン」、「ナノテクノロジー」、「バーチャルリアリティ」、「自動運転」、「ウェアラブル」、「フィンテック」といった分野だ。もはやSFとファンタジーである(笑)

すでに自動運転のファンドは出来高が高くランキングも上位に食い込んでいる。もしかしたら、これが天井かもしれないしテスラの暴落の件もあり、なんとも言えないのだが、自分は「ナノテクノロジー」の分野は大いに飛躍するとカーツワイルのシンギュラリティの書籍を読んでいるため、そしてナノテクノロジーの進化の過程が脳に浸み込んでしまっているので、半信半疑だがここへ投資することにした。おそらく本当に価値がでてくるのは5年後から10年後かもしれないが、自動運転よりも衝撃的だと思っている。

2018年12月に10,000円で始まり、現在2021年1月22日で21,631円。バブルではある気もするが、この先この宝くじはどうなるだろうか。やはり投資は遊びだ。

2020年(前編)と2021年(後編)

2020年から2021年になったわけだが、新しい年が始まったというよりは、前の年から続いているような、というか後編が始まったとしか思えない。ラジオを聞いていたら2020年と2021年は合わせて1年になるようなことを話していたのだが確かにそんな感じだ。

2020年ってTwo thousand twentyでしょ?で、2021年がTwo thousand twenty one. 数年後は、「あー、トゥーサウザンとトウェンティワンの時ねー、あの時はああだった、こうだった、んだんだ」のように9.11や3.11のように語呂よく語られるようになるのだろう。一抹の不安は2021年が後編で終わればいいのだが、実際は2022年が完結の3部構成だったらそれはさすがに長編すぎる、と心配になってしまうのだが。

とにかくだ、今年は後半戦であって、夢も目標もなく、昨年と同じ生活が繰り返されることへの苛々と諦めしかない。まさに空洞の2年間。というか、今もって深刻化している状況で先が見えない。もう分かった、この1年で十分我々人類についてはあれやこれやとテレビでもネットでも動画でも雑誌でも取り上げたのだし、もうこれ以上に反省や考え直すことはない。人間がやりすぎた生き物であることも分かった。頼む、この檻から出してくれと全国民が思っているのなら、ありうるとすれば、今年国民は緊急事態など我慢できずに脱獄するということだろうか。

今このコロナ禍で人々が気付いたことはと言えば、「しまった、やりすぎだった」こと以外に何もない、とは菊地成孔さんのラジオでの発言。人はやりすぎる為にこの世に繁殖した生き物で繁殖もしすぎ、なわけで、かのジョルジュ・バタイユもそう仰っており、「生きることは狂ったように、だが永遠にサイコロを投げることだ」と。

このブログを書いている時に、実は近々行う予定の、某専門学校から講師依頼の文書が届き、それの台本を書いていたのだが、緊急事態宣言の為に延期になり、ならば休暇になると思っていたら、話の内容をテキストに書いて送れとのことで、またテキストを書くのかとまさに今、同時進行で書いている。話す内容の中に学生に向けての言葉などがあるのだが、この空洞の2年間において、それをどう伝えればよいのか考えていたが、世の中の悪い歯車の話などをするよりは、着眼力を身に着けて物事の本質をつかみとる力をつけるにはどうすればよいか、を話すことの方が学び(笑)があるのでは、と思った為、それがテーマにはなった。

それにしてもこの年齢にもなると、実際には特にこちらから熱心に学生にむけて何かを伝える気力などそれほどなく、依頼されれば勿論するが、もしくは学生から質問があれば返答するくらいのモチベーションになっている。しかし、もしも何か新しいことをするなら若いやつとツルめという言葉があり、自分は若い人は大好きであり一緒に行動するのも楽しいのだが、おそらく同じ目線で話合うのと講義はまた違ったものなのだろう。まぁ、これまでめちゃくちゃな生活をしてきたわけで、自分などよりも管理職やインテリゲンチャの優秀な人など五万といるので、そちらから学生に向けて話したほうが良いと思われるのだが、何故自分が選ばれるかが、いつも謎だ。でもおそらくこれは自分に課されたミッションなのだと思い、ひたすらテキストを書くことにする。それに普通のインテリの優秀な方が学生に話をすれば、学生たちは普通のインテリ人として繁殖する可能性があるわけで、目障り此の上ない。やはり、自分が話をするべきなのか?

新年のご挨拶と、Offsonarの動画編集に対するコメント返信

新年あけましておめでとうございます。新年と言っても年末年始はほとんど仕事でキッチンで過ごしていたので、もう寝不足でしょうがないです。なので世間は失業やら解雇やら言われているのが信じられないくらいです。そして気づいたら今日はもう1月7日。社会はロックダウンやらトランプのおっさん支持者がワシントンに大集合してたりと(自分もTwitterを見てたらワシントンへ行きたくなってしまいましたが)、こんな日まで働いてたらワーカホリックと何ら変わらないとも思いますが、忙しい中で時間を作って映像の編集作業をしているので、何とか完成したとも言えます。そんな先日配信した、バルセロナのダンスミュージックフェスのOFFSonarの感想を友人のO君(男性)が丁寧に書いてくれました。

「以下O君(男性)の感想文」↓

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あけましておめでとーございまーす

ひろたんのYoutube、クリスマス前くらいには見終えてたんですが、いろいろ考えてるうちに今日になってしまったよー!

75分、ガッツリ見させてもらいました!

個人的にはアリでした!ひろたんがFBにも投稿してた外人のコメントと一緒でここまでフッテージを垂れ流してるのはリアリティ番組ハンパない!!!

そこは間違いないッス!「あの現場にいだんだよ」感はすごいし、それを画像と音でこっそりつなげて違和感なく繋げてるのとか、ひろたんがFBで言わなきゃ自分もわかんなかった!!

あとは、ヒロたんの思いがどっちなんだろー。ってとこですかね。

再生数を伸ばしたい。なのか、自己満なのか。

自己満だったらあれはいいと思う!超絶リアルだし、そこにいるかのような感じだし。ただ、再生数伸ばしたいなら説明が必要かもしれません。あとはタイムラインとか、ヒロたんの感情とかを動画の中に入れたほうが、感情移入というか、わかりやすいかも。

ああいうイベントに行きなれてたり、最初から行きたいやつが見たらあの音楽に飲み込まれてる街全体の雰囲気とか超伝わるけど、見る側の意識が高くないと追えない部分はありそうでした。

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以上、という内容でした。

とにかく今回の映像の現場のリアル感が少数ながら伝わったことが良かったのと、繋げているのが気づかれてなかったのがDJ仕事としては嬉しかったです。いやー、気付かないもんですね。とにかく曲と曲の繋ぎ目はフェードアウイトインで何度もやり直ししたので、普通に聴いていたら粗はほとんど目立たないと思います。それが現場感を出す上で非常に重要になってるんですよね。

この作品を作ろうと思った時に思い浮かんだのが、映画「ウッドストック」(笑)

内容は詳しくは覚えていないけど、アメリカは70年代にあった3日間のロックフェスの映画です。ジミヘンやジャニス、WHOといった面々がとにかく本気で演奏していて見ている客も本気。商業主義がなく、ひたすらリズムに合わせて体を夢中に動かしているああいった雰囲気を作ってみたかったんです。因みにあれって編集しているのはマーティン・スコセッシ監督です。OFFSonarも色々なレーベルが集まってイベントを行っているので全く商業主義ではないとは言い切れないけど、さすがにミニマルテクノというジャンルで商業をしようとする人はそんなに多くはないと思われ、みんなひたすらその場を心底楽しんでおり、まさに狂乱の渦。こんなのは日本では開催されないだろうし、しかもプロフェッショナルなカメラで撮影している人もいないので、これは作らないとならないと自分のミッションとしました。

テクノミュージックは僕が聴いていたのは90年代の頃で普段はそれほど聞いてはいなかったのが、この2,3年くらいによく聴くようになりました。それは、あのダークで落とされる曲調が今の混沌の時代に妙に似合うから。そして、2019年のOFFSnonar、あの時期のああいったフェスの開催はやばい。もう世界がめちゃくちゃになりそうな一歩手前をあの場で感じることができて、少し狂気すら感じました。実際にその後すぐパンデミックになるのですが。

そして何度も書いているCharlotte de Witte,僕は彼女を女というよりは男として見えていて選曲もたくましい。昔はアイドル的なとも言われていたけどそんなことはなく、非常にっかっこいい。煙草を吸いながらプレイするトップDJの女性もなかなかいないだろう。

映画「ウッドストック」ではジャズ・ミュージシャンのマイルス・デイビスも出演していてこれの一番記憶に残っているのが、ジョニ・ミッチェルとマイルスがすれ違うところでマイルスがめちゃくちゃ怖い。そんな舞台袖を撮りたくてフッテージを長めにして、盛り上がっていないかもしれないけど、DJが次のDJにチェンジする時って個人的に好きな瞬間なんです。そういったイベントの現場感を出したかった。

そして「僕の思いが、再生数を伸ばしたい。なのか、自己満なのか。」

なんですが、ここまで書いてきて分かったんですが、作業に没頭しちゃってて何も考えていないですね。そうそう、考えられなかった。最初は考えましたよ、こんなに長いんじゃ再生されないよなー、と。完成した後にもね。でも作業を始めたらそんなのどうでもよくなって、自分で撮った動画に自分が興奮してました。感情表現に関してはフッテージでよくカメラがブレる瞬間にそれを感じてもらえればいいかなと、見てくれる人の想像に任せることにしました。というか想像してほしい。なので自己満の部分もありますが、思いは「見る側への問題定義」です。(笑)

そして最後の感想で、

「ああいうイベントに行きなれてたり、最初から行きたいやつが見たらあの音楽に飲み込まれてる街全体の雰囲気とか超伝わるけど、見る側の意識が高くないと追えない部分はありそうでした。」

これはその通りだと思います。僕としては、逆に見る側への願いとして、追ってほしいという想いがあって、意識高くなってほしいなんて言ったら超おこがましいのですが、フェスってのはこれのことを言うのであって、規制に守られ過ぎたフェスや音楽なんてのはリアルじゃないし、本当にフェスに行くってのはそんな規則もルールも危ういところへ行くものなので(昔はライブハウスやクラブってのは少し怖いところだった。)何か違う感覚が見えてくるんです。来ている連中の意識が高いから、うかうかしていられない気持ちや、クリエイターも多いので自分は何を表現しているのか?自分の好きな音楽というものをどれだけ好きなのか、理解しているのか?と試されているような感覚もあります。海外旅行もそうですが、日本にいるのとは全く違い、守られていない環境へ行くからこそ真実が見えるわけで、この映像は言葉では伝わらないし、真実を見たいなら映像を見て自分で考えてもらいたい、そして現場へ行ってほしい、という気持ちも含まれてます。

まとまったかな?

こういった解説は制作後になると色々と発見があって説明できるけれど、実際の制作中は没頭していて、1クリップ1クリップを繋げる時に(今回は曲のテンポと映像の両方)にいちいち興奮して作業していました。やってみて分かったのは、またフェスの映像を撮りたい。それをまた編集したいということです。現場の音だけでもここまでできることが分かったので、DOKKINKIN TVの旅の映像も音楽なしで現場感を伝えらえる作品を作ることも考えていこうと思っています。