最近、ウイグルかウィルスなのか見間違えるくらいニュース欄でこの文字を見ることが多い。昨日も訪米した菅首相らも対中国に対しての協力姿勢を示していることをTVのニュースで放送しており、その裏の番組ではリーゼント刑事を放送していた。今後、海外へ行く人の中には世界を牛耳る国がアメリカよりも、日本のリーゼント刑事率いる徳島県警よりも、中国になっているかもしれない奇妙な世界の中で(もちろん僕はリーゼント刑事派だ)たまたま中国公安から尋問される機会も増えるのではないかと思い、そこで行われる尋問の状況について書いてみた。
今月は、ユニクロの柳井さんのウイグルについてのノーコメント問題が話題に上がっていたが、僕は柳井さんのノーコメントについては自分も少し近いところがあり、もちろん柳井さんはビジネスをかなりシビアに考えているので自分のとは全く違うし、実は余談だが僕は数年前に柳井さんの自宅へ二、三回行ったことがあったりする、当時の自分の上司が邸宅を建築しており、自分が行ったのはその建築中にだが、まるでそれは広大な敷地にある城のようだった。
僕は昔、世田谷に住んでいたことがあり部屋は1階だったのだが、二階に住んでいる学生が夜中友達を呼んで騒いでいたので何度か注意したのだが、学生はユニクロでバイトをしていて帰りも遅くなるので深夜になっても生活音がするのは仕方がないと主張してきた。そのことを当時の会社で話すと、上司が「今日、柳井さんと会うから話してきてやるよ、どこのユニクロのバイト?」と言うので、「いやいや、そんなユニクロの社長から直接バイトに話がいったら学生めちゃくちゃびっくりするでしょーよ(笑)」と僕は言い、上司は「直接の方がいいじゃねーか(笑)」と言っていた。結局この問題については自分で対処したが。
そしてこのウイグル問題、何故ノーコメントであまり話したくないのかと言えば、兎に角危険だからだ。僕は2018年の11月に新疆ウイグル自治区でプチ弾圧された。中国に行ってプチ整形してきたのではないです、プチ弾圧です、中国の公安に連行されて。その時にされた威嚇と取り調べが非常に自分に恐怖感を与え、少し前に香港の活動家である周庭さんが取り調べを受けた後「今回のは、、、怖かったです。。」と話していたのを見て、彼女の気持ちに共感を覚えるくらいプチっと脳裏に焼き付いている。なのであの時のことは口にチャックをして一切漏らさないようにしており、しかし誰かと酒を飲み交わしている時はついつい思いっきり喋っているのだがそれは内緒だ。あとは髪を切ってくれるバーバーのお兄さんがこの弾圧の話が好きでよく聞いてきたりするので、髪を切る度話していて、周りにいる客にも聞こえている。しかしながら、これからここに書く詳細はオフレコにしてほしい。
2018年の11月はまだウイグル問題はメディアに公開される直前(ウイグル特集を組んだNewsWeek誌発売の2週間前くらい)で、だが現地では強制収容所へ連行されているウイグル人が多くその真只中であり、しかし実は僕はこのことについて当時ほとんど知らず猛火の中へ飛び込むようなものだった。それよりも旅好きの友人が数年前に目的地であるウルムチに行ったことを僕に話してくれたのだが、そこには80年代の中央アジアの風景や人々との交流を彷彿とさせるような内容で、全盛期の地球の歩き方の時代を感じとることができた。しかも現地のウイグル人達と焼肉の出店が立ち並び、俺の写真を撮ってくれとせがまれ写真を撮りまくったそうなのだ。そして自分の母親もウルムチから西安、シルクロードに行ったことがあり、その素晴らしさを聞かされていた。
そんな回想を巡らせながら男友人と二人で現地へ向かい、搭乗した飛行機を降りてウルムチの空港を出ると大きな装甲車が出口で僕等を出迎えてくれた。
カメラを向けて装甲車を撮影すると中から4、5人くらいの軍人が一斉にこちらを見た。これは撮ってはダメなのか隣に立っていた何かの係らしき人に聞くと「いいからいいから」というようなことを言うので大丈夫かと思ったが、装甲車の中からはとにかくこちらを凝視しており、妙な気がしたのでやめて街へ向かうバスに乗り込む。
ちなみにウルムチへ行くには北京経由で、成田空港を22時頃に出発し、北京空港にて一泊夜を明かして早朝の便に乗り、朝の10時くらいに到着した。ホテルを探し「胜利路」(Shengli Road)という現地のウイグル民族が多く住んでいる地点を目指す。街中は長閑で中国の地方都市のようでそこにはビル街があり、大陸のど真ん中に発展した都市があることが不思議で街中を散策した。歩いていると公安から立ち入り禁止を告げられたり、中国の赤い国旗は妙にワザとらしく街頭に数多く掲げられていた。街中は漢字とアラビック文字と英語の交じった文字で書かれた看板があちこちにあり、大陸のど真ん中にある文化と人種の最大交流地点なのだということを意識させてくれる。そして事はウルムチで有名なバザール「二道橋市場」という大きなショッピングモールである複合施設であり見た目はモスクのようだが、そこへ向かう途中に起こった。
歩いていると寺院のような建物があり、なぜか壁の上部には有刺鉄線が施されていた。何も考えずに、あぁモスクか、と写真を一枚撮影するとスチャダラパーのボーズ似の公安の一人がこちらへ向かってきた。ちょっとこっちへ来るように誘導され、危険な雰囲気は全くなく旅行者へ対する何らかの確認でもするのかと思ったのだが、ここへ入れと言われるとそこに街の交番のようなものがあり、建物は何というかカップケーキの大と小を二段に重ねたような円錐のベージュ色の2階建ての建物で窓には鉄格子が嵌めてあり、外からは見えないようになっている。こんな愛らしく奇妙な建物の中へ興味深く入ると役人用のデスクと折り畳みの椅子くらいしか物はなくて、がらんとしていた。そこで2,3人の公安に監視されながらしばらく待っていると、2階から上官らしき人物が西日に照らされながら階段を下りてきた。その光景は何というか再現された一昔前の戦時中の映画のような雰囲気だった。この公安から中国語で色々と話させるが英語が全く通じない。そこで一緒に来た友人がgoogle音声翻訳を使い自動翻訳を始めた。これがなかなか優秀で多少コミュニケーションがとれたが、いかんせんこの地区は電波が悪い。レンタルwifiも非常に遅くインターネットやSNSも規制されている。自分もその自動音声翻訳を使い始めるが言語設定が英語から中国語への翻訳となっており、あまつさえ電波が悪く変更がスムーズに変えられない中、友人の日本語と相手の中国語と自分の英語とで混乱状況になってしまった。そうこうすると、公安が話す内容が翻訳機に表示された。「ここでしばらく待ってください、座ってください」。またしばらくすると、外から今度は軍隊が7,8人中へ入ってきて、みな長銃を構えたデザート迷彩を来た軍の連中で、僕等が携帯電話を触っていると、携帯を触るなと注意してきて、その長銃を全員で床にドドドド!!!と突いて威嚇してきた。その時は、自分はそういう威嚇に対しては割と落ち着いていて、ちょっと面倒事かな、というか面倒くさいと思い早く処理が終わるのを待っていた。現地時刻で夕刻の4時だ。
そうすると、「よしOK」のようなことを公安が言うので、あぁこれで終わりか、解放されるのかと思ったら、パトカーのような車が来て、これに乗れと言われ連行されることになった。この時、どこへ連れていかれるのか分からず恐怖を感じた。着いたところは大きなグレーの建物で入口の扉も非常に高い位置までありそれが頑丈に閉まっている。日本でいうところの警察署の本署のようなものだろうか。中へ入りベンチに座って待っていると、隣にも何人かの連行されたウイグル人も座っていた。自分達の番になり窓口に呼ばれ若い男性の公安との質問回答が始まり、またもやgoogle音声翻訳の出番となった。ここでも日本語と中国語と英語の入り混じった混乱のやり取りで(友人は日本語、自分は英語を話す人物だと思われてしまった、google音声翻訳に英語で話して中国語へ変換というのは相当大変なのは英語力が中級レベルの人なら分かるだろう)公安からの質問は、「取材許可証は持っていますか?」ということを何度も聞かれた。どうやら相手は自分達を記者だと思っているようだった。記者ではないと説明し旅行に来ていると伝えてもなかなか話が伝わらず、パスポートとカメラの中身を全てチェックすることになりカメラをもっていかれた。その後に続く質問は、「職業は何ですか?日本のなんという企業で働いているのですか?社員証はありあすか?」、パスポートを見て「あなたはイスラム国に数か国へ行っていますが、目的はなんですか?」等と続き、滞在日数、今後の予定などを聞かれ、翌日のシルクロード行きのバスのチケットがあったのでそれを見せて、職業の説明については、料理人風に包丁で物を切るゼスチャーをすると、公安は「あー、シェフかーOKOK」と笑い何故か受けた。そして疑うことなく納得し(なぜこれで納得なのかよく分からないが)、戻ってきたカメラの中を見てまた笑っている面もあった。そして、またしばらく待って下さいと言われ、ウイグル人達とベンチで待機することになる。もはやこの雰囲気は虐めである。その時、トイレに行きたくて、トイレに行かせてもらい、よく考えたら昨晩は北京の空港で一夜明かしており、そのまま行動をしているので、ゆっくりしていた時間はなかったのだ。
その間、友人は目の前で尋問を受けており、一生懸命話を続けている。その待機している間、様々なことが頭の中を過ぎり、今夜はここで一晩明かすことになるのだろうか、いやそもそも一晩で済むのか?伊藤忠の香港で逮捕された社員は数年間日本へ帰られていない、この尋問の時間が延びると帰りのフライトに間に合わないが、帰りのフライトの時間は公安に伝えたので、2日後のフライトであれば早く帰国してもらいたいと思っているはずだがどうか、ここで提供される飯の味は食べられるものなのか?布団はあるのか?絶対寒いはずだ、そして確実にアンコンフォタブルだろ、ここは(笑)等と考えていた。
友人の話が通じたのか再度自分も呼ばれ、出て行っていいと言われ解放されることとなった。最後の頃は公安もいいお兄ちゃんのような雰囲気になっていた。外に出ると空が青く高くやっと出られたと出所の喜びを全身で感じた(笑)トータル時間3時間半くらいだったと思う。とにかく腹が減っていたので中央アジア料理の店を探しにバザール「二道橋市場」へ向かう。そこは入口に検問所があり、入る人々は顔認証システムで身元を確認してから中へ入れるような物騒な雰囲気であった。自分達は外国人なので別室での検問になる。滞在中はこういった身元確認が何度も続き、旅好きの友人の話していた異国情緒あふれる自由な中央アジアの風情はもはやそこにはなく、非常に不自由で監視されている中央アジアだった。
過去の海外での出来事の中でも一番危険を感じたのがこの中国での尋問の件であったと思う。騙されたり、病気になったりしたことはあったが、このような恐怖感は他にはない。中国へ行くのはしばらく止めておこうとさえなった。
このウルムチ滞在の後、数ヵ月してからスウェーデンのストックホルムへ行った。その帰りの便はストックホルムからフランクフルトを経由して日本へ帰国するものだったのだが、天候が荒れており飛行機が飛ばなくなった。スタッフに相談しに行くと、フランクフルトに一泊するしかないと言われたが、他の便を探してもらい、ダイレクトフライトが見つかり、しかしそれは中国国際航空だった。北京経由の羽田行き。北京での乗り継ぎもしたくない気分であったがここは止むを得ない。便を変更するため特別の経路で空港を移動する。
搭乗ゲートへ入る前に専用のカウンターで前に並んでいた外国人が何処へ行きますか?とスタッフから質問され、「ウルムチ」と答えていた。もし彼が悪運を持っているとすれば、現地でそれが尽き果てるのかどうか。
ウルムチに関しては以下の2本の動画を制作しているので興味のある方はこのリンクから。
最後に友人の書いているブログTOKYO.IS.THE.REASONにて良き時代であったウルムチの紀行文と写真が載せてあるのでリンクを貼っておきます。ほんの数年前なのに、こんなウルムチはいまや見ることはできません。