旅先を決める前、バルカン半島にユーゴスラビアという国があったということを思い出し、あった国がなくなってしまうということに何か幻想的な感覚を覚え、調べてみるとベオグラードがユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都であった。
昔、90年代に「アンダーグラウンド」という映画があり当時の自分は20歳くらいで、てっきりアンダーグラウンドカルチャーの映画かと思っていたら、それはユーゴスラビアの誕生から消滅までを描いた砲弾が激しく行き交う映画であって、やっとその舞台に来ることができた。これも物価高の中でどこか行ける国(この国は隣国がハンガリーだがEUには所属していない)はないかという非常に品のない決め方ではあったのだが、まぁそれも何か運命的なきっかけであって旧ユーゴスラビア共産党指導者のチトー大統領のメモリアルにまで訪問することもできた。
そして何よりも街中の建築が他のヨーロッパの国々とは違っていて、並んでいるビルは重圧的でただただ尖っているように見える。歩いている人々は賑やかで普通の都市にあるような風景に見えるが西欧とも米国とも距離を置くような身の纏い方、どこにも属さないような気負い方で冷たい視線を放っている。詳しくはないがビザンチン風の建物、旧ユーゴスラビア時代の建物があらゆるところに乱雑に新旧織り交ぜに建ち並んでいる。補修もろくにされず、当時の時代がそのまま保存されているような、それが退廃して取り残されてしまったかのようだ。
西側が正解なのか中央なのか東なのか、というような疑問は何も意味をなさないという回答に行き着く。ただ生まれて死んでいき、国という体制にも寿命というものがあり、どちらが先に息絶えるかというのは運命のようなものであり、今滞在しているホテル・モスクワは1906年創業で国の誕生と消滅よりも長く生存している。今はもう生存していない人々が何人もこのホテルに宿泊した。いずれは自分もその人々と同じような道を歩むのだ。人生は短い。疑問や恐れを克服するのはいつになるのだろうか。
夕暮れになり、行っていなかった博物館、ニコラ・テスラ博物を思い出しバスで向かってみた。到着すると何人もが並んでおり、30分おきに交代制で入場しているようだった。現地の人、学生などで賑わっており、どうやら人気の博物館のようだ。20分程度待ち、受付でチケットを買おうとすると現金しか受け付けておらず、不幸にも自分はもはやセルビア通貨を持ち合わせていなかった。クレジットカードが使えず諦めて帰ろうとすると、後ろに並んでた中年の女性が自分の分も一緒にチケットを購入してくれた。海外に来るとこんな瞬間が時々訪れる。お礼以上のことは何もできないが何度も感謝の気持ちを伝える。
中に入ると発明品や研究器具が展示されている。見学者はまずテスラ博士のドキュメンタリー映画を見ることになるのだが、その後、大きなコイル機材の周りに集まり、蛍光灯を配られ一人一本ずつ持つのだが、「Are you ready?」とガイドが言うと、ものすごい音で大きな機械が動きだした。するとコイルの上でバチバチバチバチ!ジジジジ!と電気が走り、それと同時に蛍光灯の明かりがついてみんな一斉に歓声を上げた。僕は地響きのような音だったので本当に驚いて一瞬後ずさりしてしまったが。その後も他の小さなコイルで手を当てると電気が手に飛んできたりと、興味深い展示物であった。テスラというとイーロン・マスクのテスラ社が有名だが、それもイーロン・マスクがニコラ・テスラを尊敬していることから名前を付けたようだ。今回はこんな体験をさせてくれた自分にチケットを買ってくれたセルビアの女性に感謝したい。
ベオグラード滞在最後の晩は、書籍セルビア紀行に記載してあったおすすめのレストランへ行く。外観は昼間見ていたので場所はすぐに分かった。行きたいレストランは2軒あったのだが、Klub Knjizevnikaはベオグラードの作家達が集う作家倶楽部として有名で、外装はガラス張りで白いテーブルクロスのテーブルが並んでいて、行きたかったのだが生憎席がガラガラに空いていたため期待できず諦めた。ということで向かいにあるLittle bayという老舗に入った。ここの内装は18世紀かその頃の劇場のようで、個室が重厚な幕で開け閉めできるようになっていて何とも甘美で、空想的、情緒的な内装に覆われている。鴨のコンフィを注文し赤ワインを飲んだ。
携帯を覗くと現実に引き戻されたり、街を歩けば海外の空気に取り込まれ、今いるレストランにいると100年も200年も前の昔に行ってしまったりと、時空が歪んでしまい、自分の肉体と精神があらゆるところへ浮遊してしまうような感覚に陥ってしまう。日常で普段感じているものとは全く違うものを感じながら、酔い覚ましに夜の人通りの多い大通り、店じまいを始めたショッピング通りを彷徨い、ホテルに向かうと、ライトアップされた100年前からあるホテル・モスクワは夜に浮かぶ小さな城のようであった。通りを歩く人は時々立ち止まりホテルを見上げている。ホテル・モスクワは過去と現在を行き来するようなベオグラードの街の象徴でもあるのだ。
明日はここベオグラードを発ち、長距離バスで隣国ハンガリーへ向かう。
ハンガリー 、ブダペスト編ヘ続く「世界と視界の胸のうち」