二極化で思い出した「勝ち組負け組」という言葉

先日のニュースで日経平均株価がバブル後最高値更新、それと同じ見出しで国内の失業者数7万人という内容が書かれてあった。二極化した非常に不思議な現象だ。給付金やお金の使途がないため投資に資金が流れていてその反面、仕事は減り失業者は増加していくということなのだろうか。仕事はなくなっても残った資産はなくならないので、どこかへ吸い上げられていく。それが投資先だったのだろうか。今、仕事があって投資をしている人はまだいいが、投資をしていたが失業してしまった人は不安だろう。血を見るようなニュースも最近は多い。しかし、こういったパンデミック感染はいずれは終わりを向かえるので、平常を保ってしっかりと準備と対策をするしかないと思う。でも、どういうわけか、精神的に病んでしまい自殺を図る人が多い、特に日本では。とにかく真面目に考えすぎで、こうあるべきという価値観に縛らすぎて周りからも監視されているような社会なので、それに負けない強さを身に着けたほうがいいのだが、それもあまり深く考えると精神的に疲弊してしまう人もいる。おそらくは気にせず楽観的にいるのが良いと思うのだが。自分は楽観的に世間を斜めに絶望しながら人生を楽しむことにしているので、はっきり言ってこんな騒動で精神を病むことはない。確かに孤独になったり辛いことはあるとは思うが、それはいつの時でもあるものだ。世間にはこういった罠が色々と仕掛けられてあって、それに引っかからなければ良いだけなのだ。

話は逸れたが、二極化で思い出したのが10年ほど前に流行った「勝ち組負け組」という言葉。当時まったく日本人らしいと思った言葉だ。しかし勝ち組負け組の本当の意味がある。それは昔、何度も読んだジャズミュージシャンの菊地成孔の本にも書いてあり、

『流行語は大衆の中の強烈な心理的傾向を反映している訳で、批判したり称揚したりする性質のものじゃないが「勝ち組負け組」というのは痛々しすぎる。本来「勝ち組」とはブラジルの奥地で、第二次大戦での日本の敗北を受け入れず、日本が勝ったという妄想と共に暮らしている、多くは旧日本兵のことを意味し、僕はその奇妙な存在に対する奇妙な呼称(文字どおり中南米幻想文学的な)の言語感覚をとても美しいと思って子供の頃から愛してきたからだ。ついこの間までの日本人がポジティブシンキングだなどと言っていたので嫌な予感はしていたけど、強烈で分り易い、つまりはポップな勝利ばかりに人々はこれほど群がらなければならないほど、僕等は何に負け続けたのだろうか?敗北に対する病的な嫌悪傾向、勝利に対する病的な飢餓傾向はいつでもブルースの官能とユーモアを排除する、負けてみなって。悪くないから。』

この勝ち組と負け組は南米の例からすると実際には日本の敗戦を知り帰還した日本兵(負け組)が勝っているわけで、本来の意味は逆になっている。数年前から日本の勝ち組負け組だっていつかは逆転すると今日まで自分は信じてきた。そしてここにきて、色々な意味で過去に負け組と言われてきた人達が話題や脚光を浴びるような社会になってきてはいないだろうか、僕は少なからずそう思う。

負けは悪いことではない。それを咎める理由など全くないしそんなことは残酷すぎる。そんなことを気にして生活していれば命に関わる問題も出てくるのは当然の結果であり、もし現状の社会やパンデミックに精神を病むのであれば、こんなんものは悪い冗談のようなもので、もし現状を勝ちと負けに分けたいのであれば、ウィルスに感染して、若しくは金があるか金がないか、そんなことが原因で差別されるということならば必ず出口はある。自分を閉じ込めている蓋を外して自分を外に出せばいい。そうすれば負けられる。何か新しいことを始めて失敗するのは当たり前のことで、困ったときに人を頼るのも当然のことで恥ずかしいことなどない。

僕はこれから先も何度でも負けるつもりだ。

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