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社会科見学派カメラマンDOKKIKIN TVによる、世界を踊りながら撮影した写真と記録。

憂鬱の推移「ブダペスト、ハンガリー6」

昨晩はオペラの公演日を一日間違えてしまい、ホテルに戻って疲れてそのままダラダラして寝てしまった。ぐっすり寝れたので朝は良く起きられ、考えるとセルビアに到着後は動きっぱなしで、もうこの旅も後半なのでこの辺で一息入れたいところだ。大体の観光地は昨日回ったので、今日は王宮方面に行って軽く散策するくらいしか予定はないので一日のんびり回ることにした。天気は曇りで雨が少しぱらついている。ホテルで傘を借りて、朝食を食べに適当にイシュトヴァーン大聖堂方面に歩いていく。大聖堂の眺めは気持ちが良く、朝一の散歩には最高の場所で辺りには鐘が鳴り響いている。目の前にカフェがあったのでそこで食べることにした。

ぱらつく雨が降るのを眺めながら、カフェのテラスでハムとチーズのパイ生地で包んだものを食べながらコーヒーを飲む。気温は雨も降っているのでそれほど高くはなく、少し肌寒い中上着を羽織って外で食べていた。今日は日曜日なので、教会でミサをやっているはずだと大聖堂へ来てみたのだが、入口で観光客は午後から入場できると断られてしまった。しかし、中に入っていく信者の人達がいるので、試しにミサへ来たと話してみる。入口の男性はうーんと頷きながらも入れと扉を指さし、中に入ることができた。ミサの間は建築物の見学ができないということのようだ。自分はミサが見たかったので入ってみたが、やはり欧州のミサは熱心な信者が集まり、牧師が話をしている厳粛な雰囲気で日曜の朝に訪れると気分も落ちつく。ミサの途中で外に出ると空は晴れていた。

ホテルが近いので受付に傘を返却して王宮へ向かう。街は小春日和で沢山の人が鎖橋を渡り王宮へ歩いていた。王宮は丘の上にあり、ケーブルカーで一気に上に上がれるのだがトイレに行きたくなりトイレを探すがなかなか見つからない。ヨーロッパは何故にこんなにもトイレがないのだろうか。グーグルマップで見つけてやっとトイレを済まし、歩いていると自転車に乗ったイギリス人から話かけられ、この階段を上がると王宮ですか?と聞かれたのでそうだけど自転車で上がるの?と言うと、持って上がるらしい。先日東京にも来たようで少し話をする。こういう観光地での会話は本当に久しぶりで寝ぼけていた頭が目覚めてくる。

ケーブルカーで上まで上がると、ドナウ川を見下ろす絶景が見えてきた。空は少し曇り空だが、国会議事堂や市街地を流れるドナウ川は格別でみんな写真を撮っていた。こんなところに住めれば楽しいのだが。王宮は国立美術館になっており中を見学する。昨日も美術館を周ったので、絵画に溺れる毎日だ。まぁ展示されている絵の詳細を詳しく理解はしていないが、絵画の海に流されることは最高の快楽になる。王宮を出て近隣を散策する。マーチャーシュ教会や漁夫の砦などは人がいっぱいで、時刻は13時だったが昼食を取りたくても人がいっぱいだった。というか、今日こそはフォアグラを食べないと食べずに帰国してしまいそうなので何とかせねば、と店を調べる。閑静な中世の住宅街を歩き、そういえばお薦めの高級ホテルはこの辺りに何軒かあるのを思い出した。女性が好きそうであろう古風でラグジュアリーな内装だったが、場所がこの辺りだと近くに店はあまりない。夜も静かになってしまうだろうが、まぁそれもそれで中世の気分を味わうにはいいのだろう。

時間がないので鎖橋を渡り、大聖堂の方面に向かう。あの辺にはレストランが何軒も立ち並んでいるので、その辺でフォアグラを探してみることにすると、Strudel Houseというフォアグラを提供している店を見つけた。スタッフに声をかけると中は客がいっぱいでテラス席を案内された。メニューを見るとRoasted Leg of DuckとGrilled Foie Grasと書かれており、これがリアルなフォアグラだとGrilled Foie Grasを薦められたので、それを注文してみた。やっとFoie Grasとメニューに書かれていたので気持ちも落ち着いてきた。運ばれてきたフォアグラは3切れ、焼き林檎が添えてあり香ばしい香りがして美味しそうだ。しかも結構腹も減っていた。フォアグラを一口食べると口の中でトロトロ解けていき、油とソースの味が染みわたっていく。そこに焼いた林檎を食べると脂身と林檎が交わるなんとも絶妙な味わいになった。感動してナイフとフォークで切り刻んで食べていく、が、さすがに3切れもあるとかなり多い。腹が減っていなければ完食するのは厳しいかもしれない。全て食べ終えるとさすがに少し胸やけしたが、ブダペストでやりたいことが一つずつ消化されていき、満足感と安心感に満ち足りていく。

一度ホテルに戻り休憩してからまた街を散策に行くと、通りすがりにSzimpla Kertという廃墟BARを見つけた。見た目が確かに廃墟で中にはカフェが何軒もありミラーボールがぶら下がっていた。昼間だが人は何人か訪れており、開放的な空間のようだ。まぁここは夜にでも来られたら来てみようとその場を後にして、コーヒーでも飲もうと近くに有名な世界一美しいカフェなどと謳われているニューヨークカフェに行くとエントランスでかなりの行列ができていたので諦めて戻ることにした。どこかにカフェはないかと探しているとちょうどいい大きさのカフェがあったのでそこでしばらくゆっくりする。今晩はオペラ座でバレエの予定があり、それまではのんびりしようと思ってカフェに来てみたのだが雰囲気が良くてワイングラスを傾けている客が多い。今日は日曜日で明日はハンガリーの記念日なのでみんな寛いでいるのだろう。

時間は17時前で近くに恐怖の館という博物館があったので行ってみた。エントランスでスタッフの女性が閉館時刻は18時だから無理だと言うので、急いで見るからと伝えると、不機嫌そうな顔でチケットを渡してくれた。大体ハンガリーの歴史を良く知らないし、ハンガリー語も理解できないので1時間もあれば回れるだろうと中に入ると大きな戦車があり、ナチス下にあった大戦中のハンガリーの写真や制服などが展示されていた、当時の生活風景も見られて、日本の沖縄で見た博物館を思い出した。結局、旅に出て博物館を訪問すると、そこにあるものは今も昔も戦争のことばかりになってしまう。地下には当時の牢獄が再現されており、どこへ行っても昔はこんな牢獄が作られていて窓は小さくてほんの少しの陽が差すだけだった。少し館内にいただけで早く外に出たくなってきたところで閉館のアナウンスが流れたので出ることにした。ホテルに戻る途中、自分の写真でも撮ってもらおうと近くにいた人にお願いして撮ってもらう。考えると海外にいるときの写真というものは、あまり持っていないのだ。ブダペストの街並みを背景にした、なかなか珍しい自分の写真を見ながらホテルに戻った。オペラ座のバレエ公演は19時からの開演だ。

憂鬱の推移「ブダペスト、ハンガリー5」

美術館の外へ出るとすぐに英雄広場があり、建設は古く大きな彫像が並んでいる。まばらに観光客がいるほどで大した観光場所ではなく、ただの広場だ。目の前には現代美術館があるが、西洋美術館でだいぶ鑑賞したのと、もう午後2時だったので昼食を食べに行くことにした。

グーグルマップでレストランを調べて、近くにあったハンガリー料理店へ黄色い地下鉄で向かう。店は地下にあり壁はレンガに覆われ客はそこそこ入っていて地元の定食屋のようだった。やっとハンガリーの庶民料理を食べられるので、パプリカスープとパプリカチキンを注文した。ドリンクは水。こちらに来てからジュースを飲みたくないのでオーダーするドリンクは水ばかりだ。慣れるとそれが普通になる。パプリカスープはスパイスが効いたビーフシチューとコンソメスープの中間のトロミで野菜が入っていて一気に身体が温まってきた。こっちにいるのなら毎日これを食べてもいいくらい食べやすくて美味い家庭料理だ。パプリカチキンは美味いが、これもまたボリュームがあって食べきれなかった。骨付きチキン3本と沢山の添えのニョッキだ。まぁ値段も安かったので満足して店を出る。

人気のない街の通りをホテルの方面へ向かって歩く。空は曇っていて時折雨がぱらつく。今夜はオペラ座に行く予定があったので、あまり活動的に動く気にはなれず、車が何台も連なって路駐されている裏道を歩いていると、なんともアンティークなカフェを見つけた。中を覗くと入らざるをえないような内装なので扉を開けてみた。天井からローソク形の照明が店内を薄暗く照らし、木目調の家具が沢山置かれている。丸いテーブルが沢山あり、レースのテーブルクロスや置いてある照明のどれも古く味があるものばかりで、そのどれもがエレガンスだ。店員は女性が一人いて、One?と尋ねてきて適当に座りたいテーブルを指さされた。内装が中世の雰囲気なので、思わずカプチーノを注文してしまった。午後3時過ぎにこんなカフェでビスケットがついたカプチーノを飲みながら携帯でだが読書をして外の雨を見ていた。かかっている選曲もゴシック調の音楽が次から次へとかかるので店員に曲名を尋ねてみたいほどであった。

毎日、西洋の街を散策することから1日が始まり、博物館や美術館、偶然見つけたカフェ、こんなにも日々の生活とはかけ離れた風景を見ていると心理は微妙に少しずつ変わっていく。日々の疲れによる傷口がうっすらとだが修復して憂鬱さと穏やかさが交差していくのが分かる。オペラ座のバレエ公演は夜の7時からだったのでホテルに戻り休むことにした。ベッドで横になり、どうも胃腸の調子が悪いのだが、きっとあの博物館で飲んだピーチジュースだと思いながら仮眠した。6時を過ぎたのでジャケットを羽織って歩いて3分のオペラ座へ向かう。外の雨が本降りになっており足早に歩く。オペラ座は沢山のドレスアップした人々が談笑しており、クロークにコートを預けている。しかし公演題目を見るとバレエではなくオペラになっており、自分のチケットを確認すると、バレエの公演は明日であり、どうやら日にちを間違えてしまったようだ。

憂鬱の推移「ブダペスト、ハンガリー4」

普通に朝7時過ぎに目覚め、LINEをチェックすると友達から何通かメッセージが届いている。日本は午後13頃なので、友達のテンションの方が高い。株価の話も出ていたが、海外にいると投資情報に追いつくエネルギーがなく、他の事に注がれてしまう。姉からの連絡もあり、母親の身体状態が書かれてあったが、特段に問題はなく、入院中の手続きをしてくれているようだ。その内容も全てを理解するには頭が追い付かず、今日どこへ向かい何をするのか頭の中を整理するだけでいっぱいになった。昨日、長距離バスで移動し街中を歩いたおかげで身体が重く、腰も怠い、こんな状態だとブダペストのホテルにしばらく滞在して帰国などはしたくはなくなってしまう。海外で朝起きてホテルで過ごすこの時がいつものことだが心身を休めてくれて、あぁ、それにしても、時間があるのならしばらくベッドに横になっていたい。

重たい身体を起こし服を着替え、朝食を摂りにラウンジへ向かった。チェックインの時に朝食は含まれていないと言われたのだが、朝食ありで予約をしたつもりだったので、念のためラウンジの受付に行くとやはり含まれておらず、通常のブッフェで20€していたので、外のカフェに行くことにした。

Café Cirkuszというカフェが手ごろで評価も高かったので向かってみた。中は8割方客が入っていて、現地の人から観光客まで朝食を食べていた。注文したのはエッグベネディクト。ほうれん草が挟み込まれて美味いのだが、やはり2個あるとなかなか多い。しばらくマップを見ながら今日の行先を調べてコーヒーを飲んでいた。とりあえずブダペスト1日目なので観光地を回ることにしてまずは中央市場へトラムで向かってみる。市場の中は比較的地味なしかし面積のある建物だった。外は雨がぱらついてきて丁度いいので中を散策することにし、店を見ると大きな赤いパプリカ、フォアグラの缶詰、巨大なサラミがどかっと置いてある。これを買う気にはなれないので、目で追いながら歩いていると朝食を売っていたりしていたので、ここで朝食べ歩きをしても良さそうだ。上の階はレストランも何軒かあり、食べることもできる。フォアグラの店はないか聞いてはみたのだが置いてはいないということ。一体フォアグラはどこで食べられるのだろう?

雨が止んでいたので、ここから歩いて国立博物館へ向かう。街は写真映えする街並みで、黄色いトラムがレトロで昔のヨーロッパへ来たような感覚になり、見ているだけで疲れた身体の鎮痛剤にもなってくれる。旅は心身のアスピリン剤代わりになるのだろうかと聞かれたら、なると言わざるを得なく、やはり旅もカフェインも鎮痛剤も憂いながらも幸せな人生にはある程度必要なのだろうか。

国立博物館は1847年に建設された館内を歩いているだけで気持ちの良い建物で、入るとすぐマリア・テレジアやシシィの肖像画が飾ってあり、その部屋は椅子が散らばって置かれておりなんとも不思議な室内だった。ハンガリーの歴史的な展示物を見て、WORLD PRESS PHOTOというちょうど期間展示の写真展を見る。コロナ禍中とコロナ後のめちゃくちゃになった世界の写真が何枚も展示されていた。まさに今自分もめちゃくちゃになってしまった欧州にいるのだが、おかしな気分だ。それを見終えて、売店でピーチジュースを買い少し休憩した。店員が「桃、桃、」と日本語で喜びながら渡してくれたが、この桃のジュースが濃厚すぎて胃がムカムカした。

そのままトラムで英雄広場近くの西洋美術館へ向かうが、西洋美術館はかなりの行列でしばらく入れる様子はなかった。オンラインチケットであればすぐ入れそうなので、手間だがバーコードを読み取り、なんとなく携帯を操作すると購入するとできた。すぐに中に入るとルノワール展を開催しており、なんだか世界中どこへ行ってもルノワールの絵だらけだなと思いながら、しかし近代画は嫌いでもないのでゆっくり流し目で見る。ここはスペイン美術のコレクションが多くエルグレコの絵などが展示してある。まぁなんでも良いのだが、これだけの数の絵を数時間かけて見て回ることができるのは本当に久しぶりで、国内にいるだけの生活が退屈でもあり、しかしこの数年間には意味もあったこともあり、過去と今が交差してくる。大きな窓の外を眺めると晴れ間が出ていた。

憂鬱の推移「ブダペスト、ハンガリー3」

時刻は18時。ハンガリー通貨は念のため現地の名の知れた銀行で引き出した。昼から何も食べておらず、とにかく腹が減っていたので何でもいいから食べたかったのだが、性格上何でも良くはなく、ハンガリー初日なのでハンガリー料理のレストランを探す。あちこち歩くが、入り易そうな庶民的なレストランは客が多くて予約がいっぱいで入れなかった。うろうろ歩きながら結局、初日の夜から庶民的ではない星付きのレストランに入ってしまった、Tシャツの恰好で。本当は落ち着いてから来たい店だったのだがしょうがない、性格上と生活上。

扉を開けて一人と伝えると、スタッフは「一人、アジア人男、ummm…」と一瞬そんな表情になったが、「OK,Here!」とカウンター的なサイドにあるテーブルに通された。落ち着いた、しかしデザインされたインテリアに囲まれた静かな店内なのだが、自分のテーブルの担当は全くそんな落ち着いた気配はなく「飲むんだろ?これとこれがハンガリアンワインで、」とテンション高めに説明してきた。1日移動してきてやっと落ち着いたので、ハンガリーの白ワインを飲む。美味い。辛口で美味すぎる。そしてパンを出されたのだが、このパンが柔らかくてほんのり甘味があって白ワインとパンを摘まむ最高の夕食のスタートになった、一人でだが、性格上とこれも生活上で。

星付きのレストランなので(店名はTextura)、メニューをしっかりと和訳しながら読んでいると、またスタッフの兄ちゃんがやって来て、親切というかかなりノリに乗っていてペラペラ説明してくるのだが、その会話のスピードで料理の説明を一気にされると、なんだかよく分からなくなり、そうなると、こっちも質問を返して、会話に取り留めがなくなってしまった、分からなければ適当に注文してしまったりもするが、思わず質問してしまうのが自分だったりしてしまう、性格上。大体、Tシャツで来るなんて蕎麦屋に入るレベルか、相当舌の肥えた常連客くらいかもしれない。ということで、自分は蕎麦屋に入る気持ちでこれからもレストランへ通おうということを決心した。

とりあえず、この営業じみた兄ちゃんに、「ハンガリーはフォアグラだよね?フォアグラ食べたいんだけど。」って話したが、どうやらフォアグラはないらしく、レバーのパテを食べてみろというので、それを注文してみた。メニューにはPoultry liver pate,blackberry crispと書いてあり、なんとも洒落たものが出てきそうな雰囲気だ。メインはどうするんだ?と聞かれ、説明が一生懸命過ぎてついていけないので、「また食べたら注文する」と伝えた。

そうしていると洒落たものが出てきた。葡萄酒色の楕円のボールが盛り付けられている。これ絶対に美味いだろうと、食べると外は甘いブラックベリーで中にレバーのパテ、赤ワインを注文した。兄ちゃんは「ボトルいくだろ?」と言ってきてもう大分打ち解けてきているが、グラスにしてもらい、前菜のブラックベリーのパテを摘まむ。やや甘めなので、この量の半分でもよいが、腹が減っていたのですぐ食べ終える。さすが星付きと感心したので、メニューをじっと眺める。メインは、ローストチキンかポークかビーフ、サメ?、ニョッキとあるので、ローストチキンに決めた。セルビアで豚肉も牛肉も荒っぽいのを食べてきたので、ローストチキンならブダペスト的な品の良い料理が出るだろうと思ったら、本当に出てきた。欧州に着いてから一番の盛り付けの肉料理で、チキンが柔らかい。柔らかすぎてパテのように感じるがチキンだ、フワフワしている。なんでか別皿にマッシュルームとチーズのアヒージョがあり、これも摘まみとして最高の料理だった。一日腹を空かしてセルビアからバスで国境を8時間かけて移動して、歩いて歩いて、やっとたどり着いたレストランでローストチキンとワインを飲むこの最高の瞬間は誰にも分からないだろう、そりゃ分かんないよね、誰もやらないから。と浸りながら一人で食べて呑んでたら、このデザートはサービスだからと、ドン!と彫刻めいたガラス細工にスイーツというかお菓子が置かれており、まぁ食べると結構甘い、この辺りの人が好きであろうかのお菓子だった。ちなみにスタッフの兄ちゃんは自分の席では陽気だが、目の前の他のテーブル席に行くと落ち着いた接客に変わり、まったくの別人であったのだが、そういう姿勢を見ているとさすがと少し尊敬してしまう。

レストランを出て、ちょうどいい気温の秋の夜の繁華街を練り歩く。もうワインを3杯程飲んだので、ほろ酔いで歩いていると、テラス席が群がる遊歩道を見つけ、僕は良い気分に酔っている人々を眺めていた。

憂鬱の推移「ブダペスト、ハンガリー 2」

ブダペストのバスターミナルで降りて街の中心地へ向かう。バスの中で携帯の電波が途切れてしまいインターネットに繋がらなくなってしまっていたが、バスを降りても繋がらず、どうやらsimカードの容量が尽きてしまったらしい。ネットに繋がらない状況になってしまい、まったく道のりが分からず、しょうがないので道に書いてある標識を見ながら駅を探す。辛うじてGoogle mapが、時々ではあるが画面に自分の現在地を示していた。地下鉄を見つけ階段を下りていくと切符売り場と改札があり、それを見て昔行ったオーストリアのウィーンを思い出した。改札や切符発券機の配色など似ていて、ヨーロッパに来たのだなと思った。それにベオグラードには地下鉄というものはなかった。

インターネットが繋がらないので、路線図と地球の歩き方のマップを見ながら、泊まるホテルの場所を確認する。切符発券機の操作は触ってみると、ヨーロッパの発券機なので分かりやすく3日通し券のフリーパスをクレジットカードで購入した。ハンガリーの通貨は持ち合わせていなかったが市内のどこかで下ろせばいいだろう。電車の車内は綺麗で治安の良さそうな雰囲気で、流れているアナウンスや匂いまでベオグラードからよその国に変貌した。携帯電話が圏外なので降りる駅をよく確認しながら乗っていた。駅に到着し、階段を上がるとその街並みは西洋という街並みが建ち並んでいた。建物や、それに掲げてある広告塔、歩いている人々、ベオグラードとは様変わりし、西欧諸国に入ったことを実感する。空は曇っていたが、ここは西欧とはいえ東欧だ、その曇った空が街の憂鬱さが合っている。僕は曇った生暖かい空気の街を呆然と見ながらゆっくりホテルのある方角へ向かう、ガイドブックの紙の地図を見ながら。

後から分かったことだが、この圏外で紙の地図を見ながら移動していたこの瞬間が一番楽しかったということだ。昔、移動時は圏外になった携帯で、自分で地図を読みながら色々な場所を探したものだ。それがGoogle mapが使えるようになり、どこへ行くのにも迷わず短時間で辿り着けるようになった。便利になった反面、旅に出てから折角のやるべき貴重な作業が失われてしまった。人はそんなに効率を求めて何に向かうのかは不思議だ。この移動時間、手作業は大変で忙しいが時間は不思議とゆっくりと流れた。

メインストリートであるアンドラーシ通りを真っ直ぐ歩けば大体のところに辿り着く。歩いているとオペラ座のハンガリー国立歌劇場に到着し、何人かの観光客が外観の写真を撮っている。ホテルはオペラ座のすぐ近くのはずだったのだが、そこから歩くと1分くらいのところにあった。それでホテルの名前がホテル・オペラだったのか。オペラのチケットは1枚買っていて、この立地であれば着替えてすぐに歌劇場に向かえてしまう好立地だ。

ホテルの受付でチェックインを済ませる。エントランスは広くてセンスの良い空間で1泊15,000円。東欧価格で考えると少し高いが、インフレと立地からするとそれ位だろう。部屋に入ると明示してあったとおり広い。ここに4泊するので少し広めの部屋を取っておいた。ベッドがシングルではなくツインになっていたが、空間が広くて過ごしやすそうだった。窓からの眺めは残念ながら他の部屋群であった。

SIMカードを買いに行こうと部屋を出てvodafoneのショップへ向かう。店は混んでいて番号札を貰い並んでいた。15分くらいで呼ばれ、5GBのカードを買いセッティングしてもらった。日本のアマゾンでは1000円で買えたのだが、ここでは4000円。10日間の旅程であれば15GBくらいあると持つだろうか。隣に両替商があったので余ったセルビア通貨をハンガリー通貨に両替してもらい、そのまま街の中心にある聖イシュトヴァーン大聖堂に行く。時刻は17時。だんだん日が暮れてきていて夕日が大聖堂に反射いている時だった。その時、カーンカーンカーンと鐘が鳴り響いた。それは大きな音で聖堂の前の広場に響き渡った。その鐘の音を聞いて、何か頭の中にあるもやっとしたものが叩き起こされたような感覚になった。パンデミックで閉じ込められていた3年間の出来事や、しばらく来ることのできなかった海外、そういうことが一斉に終わり、新しい時代が始まった、いや始まっていることを告げられているようだった。パンデミックの時も先のことが何も分からなかったが、それは終結し、また新しい白紙の時代が始まったような気がした。しかしパンデミックの頃が懐かしく暖かくも感じてしまうことが不思議に思える。

鐘の音に皆が聞き入っている時、ちょうど日没になったので、ドナウ川の方へ歩いていった。川が見えてくるのと同時に太陽が沈んでいく。その光景があまりにも綺麗で歩く足が止まらない。先に行くと川に架かった鎖橋が見えてくる。川沿いを歩く人、ベンチに座っている人、みんな川を眺めている。最初に想像していたブダペストやドナウ川が期待以上に綺麗な光景をもたらしてくれたことにため息が出る。夕暮れと共に鎖橋は少しずつライトアップされていく。100年、200年前の昔からあまり変わらない光景なのだろうか。空と川と橋、川の向こう側にある王宮の明かりが見え、しばらくそこから動くことができなかった。

写真をしばらく撮っていると、撮影を頼まれたりしたが、朝食を食べてから何も食べておらず夕食を食べにレストランへ向かうことにした。

憂鬱の推移「ブダペスト、ハンガリー1」

ベオグラード4日目、3回目の朝を迎えた。今日は朝8時の長距離バスでハンガリーのブダペストへ向かう。7時半にバスターミナルに到着したいので、早起きして身支度を済ませレセプションでチェックアウトの手続き、スタッフにタクシーを呼んでもらった。タクシーを待つ間、早々と朝食を食べ終えたが、6時ということで今朝ピアニストはいない。

ホテルの前にタクシーが来る予定が、遠くのメイン通りからクラクションが聞こえた。ヘイ!と声を上げているのでそちらへ向かう。タクシーに乗ると、若い男の運転手はブダペストまでバスでいくらするんだ?自分の兄がブダペストで働いている、などと話しをしてくる。ベオグラードの朝は渋滞するとホテルのスタッフから聞いていたが、たしかに混んでいて、近いはずのターミナルまで30分かかった。バスターミナルへ到着し、まずは入場券を払う仕組みになっているのだが、チケット売り場に行くと「入場料を払え!」とセルビアの言葉で何度も言われた。払いたいが入場料を払う窓口は他の場所にあり、勝手が分からずなかなか入場できなかった。仕組みも言葉も理解できない。なんとかチケットを買えて中に入るが、どのバスに乗ればいいのか分からなくスタッフに尋ねると、同じバスに乗る若い青年が同じ行先だから一緒に行こうと連れて行ってくれた。売店で水を買いバスに乗るると結構な人数が乗っている。出発は8時でブダペストには14時に到着の予定だ。バス内にトイレがあり、車内も綺麗でリクライニングもあり、チケットは片道約7000円。

バスが動き出し、ベオグラードの街を離れていく。ドナウ川の橋を渡るが、またブダペストでもドナウ川に出会うのだろう。街を過ぎるとそこからノビサドという小さな町で停車し、また何人か乗り込む。そのあとは国境までしばらく田園の中を走っていく。車内ではブダペストのことを色々と調べていた。出発前にベオグラードまでは調べたがブダペストについてはほとんど調べていなかった。まぁ地小さな町なのでガイドブックのマップを見れば大体は予想できるのだが。

出発の10日前、母親が転倒して怪我をした。その為、緊急で入院となり、病院へ駆けつけ医者から説明をされた。血液検査から睡眠薬、ベンソジアゼピン中毒と診断され、意識が朦朧なり、ふらつき転倒したとのことだった。今、ベンゾジアゼピンを解毒させているので1週間は入院することになった。その手続きの為、出発していいものかどうか、という状況であった。しかし、ただの捻挫で快方に向かい姉も来てくれたので、後は病院で療養するのみとなった。それでやっと出発することができたのだが、意気揚々ではなく慌てて出てきたのは否めない。その為、旅の下調べと準備に手が回らなかくなってしまっていた。

バスは国境に到着した。全員バスから降ろされ、パスポートコントロールへ並ぶ。バスはスムーズに国境に入ったが、普通の乗用車はかなりの列で並んでいる。30分から45分くらいだろうか、やっと全員のチェックが終わる。待っている間はただ日向ぼっこをしているしかなかった。

そしてまたバスに乗り込み田園の中を向かい、13時頃に休憩所に降りる。さすがに長時間バスに座っていたので身体がきつい。飛行機の移動もできるのだが久しぶりの海外だったのでバス移動を選んでしまった。よく考えたらさすがに7時間の車移動はかなりの長さだ。中はフードコートやカフェがあり、コーヒーを買う。外のテーブルに座りゆっくりしていたがなんとも清々しい天気だ。昼食はブダペストで食べようと思っていたのだが、ここからまだ予定より時間はかかってしまった。

バスに乗り込みブダペストへ向かうと、窓からの眺めは田園から街へと変わっていく。国境を超えると建物もがらっと変わっていき、今までのベオグラードの錆びついたような重々しい建物が、西側の、ヨーロッパの建物に様変わりした。

到着予定から1時間遅れ、15時過ぎにブダペストのバスターミナルに到着した。

憂鬱の推移「セルビア ベオグラード6」

旅先を決める前、バルカン半島にユーゴスラビアという国があったということを思い出し、あった国がなくなってしまうということに何か幻想的な感覚を覚え、調べてみるとベオグラードがユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都であった。

昔、90年代に「アンダーグラウンド」という映画があり当時の自分は20歳くらいで、てっきりアンダーグラウンドカルチャーの映画かと思っていたら、それはユーゴスラビアの誕生から消滅までを描いた砲弾が激しく行き交う映画であって、やっとその舞台に来ることができた。これも物価高の中でどこか行ける国(この国は隣国がハンガリーだがEUには所属していない)はないかという非常に品のない決め方ではあったのだが、まぁそれも何か運命的なきっかけであって旧ユーゴスラビア共産党指導者のチトー大統領のメモリアルにまで訪問することもできた。

そして何よりも街中の建築が他のヨーロッパの国々とは違っていて、並んでいるビルは重圧的でただただ尖っているように見える。歩いている人々は賑やかで普通の都市にあるような風景に見えるが西欧とも米国とも距離を置くような身の纏い方、どこにも属さないような気負い方で冷たい視線を放っている。詳しくはないがビザンチン風の建物、旧ユーゴスラビア時代の建物があらゆるところに乱雑に新旧織り交ぜに建ち並んでいる。補修もろくにされず、当時の時代がそのまま保存されているような、それが退廃して取り残されてしまったかのようだ。

西側が正解なのか中央なのか東なのか、というような疑問は何も意味をなさないという回答に行き着く。ただ生まれて死んでいき、国という体制にも寿命というものがあり、どちらが先に息絶えるかというのは運命のようなものであり、今滞在しているホテル・モスクワは1906年創業で国の誕生と消滅よりも長く生存している。今はもう生存していない人々が何人もこのホテルに宿泊した。いずれは自分もその人々と同じような道を歩むのだ。人生は短い。疑問や恐れを克服するのはいつになるのだろうか。

夕暮れになり、行っていなかった博物館、ニコラ・テスラ博物を思い出しバスで向かってみた。到着すると何人もが並んでおり、30分おきに交代制で入場しているようだった。現地の人、学生などで賑わっており、どうやら人気の博物館のようだ。20分程度待ち、受付でチケットを買おうとすると現金しか受け付けておらず、不幸にも自分はもはやセルビア通貨を持ち合わせていなかった。クレジットカードが使えず諦めて帰ろうとすると、後ろに並んでた中年の女性が自分の分も一緒にチケットを購入してくれた。海外に来るとこんな瞬間が時々訪れる。お礼以上のことは何もできないが何度も感謝の気持ちを伝える。

中に入ると発明品や研究器具が展示されている。見学者はまずテスラ博士のドキュメンタリー映画を見ることになるのだが、その後、大きなコイル機材の周りに集まり、蛍光灯を配られ一人一本ずつ持つのだが、「Are you ready?」とガイドが言うと、ものすごい音で大きな機械が動きだした。するとコイルの上でバチバチバチバチ!ジジジジ!と電気が走り、それと同時に蛍光灯の明かりがついてみんな一斉に歓声を上げた。僕は地響きのような音だったので本当に驚いて一瞬後ずさりしてしまったが。その後も他の小さなコイルで手を当てると電気が手に飛んできたりと、興味深い展示物であった。テスラというとイーロン・マスクのテスラ社が有名だが、それもイーロン・マスクがニコラ・テスラを尊敬していることから名前を付けたようだ。今回はこんな体験をさせてくれた自分にチケットを買ってくれたセルビアの女性に感謝したい。

ベオグラード滞在最後の晩は、書籍セルビア紀行に記載してあったおすすめのレストランへ行く。外観は昼間見ていたので場所はすぐに分かった。行きたいレストランは2軒あったのだが、Klub Knjizevnikaはベオグラードの作家達が集う作家倶楽部として有名で、外装はガラス張りで白いテーブルクロスのテーブルが並んでいて、行きたかったのだが生憎席がガラガラに空いていたため期待できず諦めた。ということで向かいにあるLittle bayという老舗に入った。ここの内装は18世紀かその頃の劇場のようで、個室が重厚な幕で開け閉めできるようになっていて何とも甘美で、空想的、情緒的な内装に覆われている。鴨のコンフィを注文し赤ワインを飲んだ。

携帯を覗くと現実に引き戻されたり、街を歩けば海外の空気に取り込まれ、今いるレストランにいると100年も200年も前の昔に行ってしまったりと、時空が歪んでしまい、自分の肉体と精神があらゆるところへ浮遊してしまうような感覚に陥ってしまう。日常で普段感じているものとは全く違うものを感じながら、酔い覚ましに夜の人通りの多い大通り、店じまいを始めたショッピング通りを彷徨い、ホテルに向かうと、ライトアップされた100年前からあるホテル・モスクワは夜に浮かぶ小さな城のようであった。通りを歩く人は時々立ち止まりホテルを見上げている。ホテル・モスクワは過去と現在を行き来するようなベオグラードの街の象徴でもあるのだ。

明日はここベオグラードを発ち、長距離バスで隣国ハンガリーへ向かう。

ハンガリー 、ブダペスト編ヘ続く「世界と視界の胸のうち」

憂鬱の推移「セルビア ベオグラード5」

セルビア3日目。ホテル・モスクワで2日目の朝食をとる。またドレスを着た昨日と同じ女性のピアニストが演奏をしている。大きな窓からの採光も良く、毎日こんな宮殿のようなところで食事をしているとまるで貴族にでもなったかのようだ。隣の席はスーツ姿のカップルやビジネスで宿泊している人たちが目立つ。

こんな僕のような大して金のない旅行者でもこんなに贅沢ができるのならば、インフレ時に欧米などに行かずにここへ来れば空いていてゆっくりできる。オーバーツーリズムで人が右往左往している場所では、こんな時間は過ごせないだろう。そのうちオーバーツーリズム被害に曝されていないセルビアは観光地として注目されるかもしれない。まぁ自分はこういった観光マーケットが稼働していない国がリアルで好きなのだが。

今日は昨晩ダウンロードしたMoovitという交通機関を検索できるアプリを使って街を移動してみることにした。ベオグラードにはバスのフリーパスカードがあるそうなのでホテルの前にあったキオスクで聞いてみた。売っていたので買ってみると、小さな紙っぺら1枚の一日通し券を渡された。バスにもトラムにも乗れるそうで、すぐ隣がバス停だったのでバスに乗車してみると運転手はほとんどその紙をチェックなどはしていなかった。行先はユーゴスラビア博物館だったが途中で聖サヴァ教会というかなり大きな施設で降りた。コロナ前のガイドブックだと内部は建設中と書いてあったが工事は終わっており、この内部の作りはセルビアらしい豪華な装飾で彩られていた。観光客も多くおり、昨日の小さな修道院のような教会とはまったく違う。さっきまで外は雨がパラパラと降っていたのだが、空は晴れていたのでそのままバスに乗りユーゴスラビア博物館に向かう。

アプリのMoovitは乗り換えの指示も分かりやすくマップ上で教えてくれ非常に便利だ。しかし、ベオグラードのバスは遅れたり満員だったりと乗れないこともあり、時間がかかったがやっとユーゴスラビア歴史博物館に到着した。公園の奥に大きな建物があり、壁画のようなものが建物中央に描かれている。しかし、そこは改装中で「今は向こうだよ」と現地の人に言われて別館の旧博物館へ向かった。入るとエントランスにカフェがあり庭園を見渡せる。太陽が出てきて非常に良い天気になり、昨日も今日も日中はシャツ1枚で十分な陽気だ。

旧博物館に入ると、中は小さな展示室だった。しかし展示してあるものは内戦中の銃器、ポスター、衣類、生活用品などがあり、興味深い。チトー政権の頃の写真も色々展示してある。わずか100年くらいでなくなってしまった国ということが非常に幻想的で、散ってしまったということが儚い。1929年の建国、2003年までの期間である。なんというか人の一生の長さにもとれる。博物館を出て先に進むと「花の家」という建物がり、中にはチトーの霊廟がある。天井はガラス張の温室になっていて植物に太陽の日が降りこんでいる。その中にチトーお墓があるのだ。日本からやっとここま来ることができた。通路にはチトーの使用していた執務室の机や当時の写真も飾ってある。チトー大統領没後10年でユーゴスラビアは解体したのだから非常に強いカリスマ性と支持力を持っていたのだろう。今の世の中にはそんなカリスマ性を持った人物は政治ではなく、どこか他のところにいるのかもしれない、などと思いながら今現在、強固な国という形を維持していくこと自体が少しぼやけてきた。

結構歩いたので庭園を見渡せるカフェでフルーツジュースを買いテーブルで寛ぐ。日常の仕事から解放されて、まだ数日間もこの生活が続く。日常から解放されて本来の自分、一個人の自分はどこへ向かいたいのかがはっきりしてくるのではないだろうか。それを知るのが旅の目的でもある。自分の一つ一つを確認していく作業とでもいうのだろうか。しばらくここで太陽を浴びていたかったが、ユーゴスラビアの幻想やチトー政権の思想が今も残る博物館を後にした。

博物館からバスで市内へ戻る。バスは相変わらず満員で人がぎゅうぎゅうに乗っている。昼時だったので飲食店の多いスカダルリアの近くで降りて、どこかで昼食を食べようと退廃感にある通りをしばらく歩く。ステレオタイプな広告や落書きの建物に気持ちが酔いながら歩いていた。軽く食べようと現地のファーストフード店の肉のグリル料理を提供している店に入る。サラミのようなソーセージに玉ねぎが添えてあり、ソーセージは肉が詰まっていて美味い。

街の中央広場、ミハイロ公の像がある場所へ行きオープンテラスでコーヒーを注文する。街の中心で頼んだコーヒーは400円くらいだった。今日はもう歩くのも疲れたので街の中をただぶらぶらと散歩していた。時たま教会があったので中を覗いたり、唯一のデパートに行ってみたりした。コンパクトで住みやすそうな街である。オープンテラスがあちこちに並んでおり、することもなくなったのでビールを飲んで寛ぐことにした。LINEを確認すると姉から数件、母親の件で連絡が入っていた。内容を見て急に現実にもどってしまう。今、自分は日本にいないので姉が母親の入院の件で色々と手続きをしてくれているのだ。現実と今目の前に見えることの交差に戸惑う。

憂鬱の推移「セルビア ベオグラード 4」

朝食を食べにホテル・モスクワのラウンジへ向かう。窓からの採光は透き通り、大通りを眺めると通勤の人たちが足早に歩いている。宮殿の内装のようなラウンジはブッフェになっていてサラミやチーズ、パン、野菜を適当に皿に取り分け、テーブルに座って食べていた。妙に音がいいピアノだと思って流れている曲を聴いていたら、本当にピアニストがいてすぐ近くで弾いていた。こんな朝からピアニストを雇っているのか?と笑ってしまった。ベオグラードでは豪華絢爛がごく当たり前の日常という文化があちこちに散らばってる。

天気は秋晴れでシャツにジャケットを羽織り、まずは内戦時にNATOに空爆された建物がある空爆通りに向かう。朝、海外の街中をこの様に歩くのが本当に久しぶりで、昔の感覚が蘇ってくる。一歩一歩と歩くごとに過去のことが思い出されてくる。天気も秋晴れで気温も暑くも寒くもなく、昔ゴールデンウィークにスペインやイタリアの朝を歩いている感覚になる。あの頃はまだまだ行っていない国があって楽しかった。歳を重ねるとやはりその頃と違うのは当然で、それも含めて楽しむしかないのだが、年相応の悩みが発生してくるもので、今年はやや憂鬱になっていた。今回の母親の入院についてはいくら看病をしても人は歳をとっていくので、もとの少し若い頃に戻ることはないのだ、ということを実感できるまで少し時間がかかった。誰しも身体は衰えていく。だが、そんな憂いも秋晴れの清々しい朝にほんの少しだけ日が当たってくる。

街並みはやはり少し寂れており落書きが多い。トラムが走っているが、乗り方が分からず歩くことにした。角を曲がると現場のビルが見えてきて、すぐに分かった。破壊されて中が空洞になったビルが何棟か建っている。その脇を会社員が通行している。僕はそのビルをしばらく眺めていた。砲弾というものが当たると建物はこんなにも破壊されてしまうのだという威力を感じながら。まぁせっかくなので自分の写真でも撮ってもらおうと誰か通行人を探していたが、お願いできそうな人がなかなか見つからずウロウロしていると60歳くらいの男性が近寄ってきた。そうすると大きな声で「Hey! It’s NATO!」と言ってきたので、「Ah,Yeah…」と頷くとギロっとした表情で「Fucking NATO!」と怒鳴って歩き去って行った。相当怒っていたようだが、どうやらセルビア民族は到着時に乗ったバスの運転手も含め皆機嫌が悪いらしい。そして建物の梁が崩れ落ちそうなビルからなかなか離れられず、しばらく見ていると警備のミリタリー服の監視員が中から出てきたのですぐにそこから去ることにした。

空爆通りから回り道をしてベオグラードの中心にある大通りテラジェに向かう。通りの建物は20世紀初頭の建物がそのまま残っておりメンテナンスでもすれば綺麗になるのだろうが、まったくしていないような建物が多い。友人が話していた退廃感マックスというのがひしひしと伝わってくる。そんな歳をとった街の退廃感に同化しながらカメラを撮っていく。自分にとってはこんなにも世の中を憂うような美しい退廃は他にはないのだが。

歩いていると教会があったので入ってみることにした。久しぶりの海外なので現地の教会の空気を味わうくらいに思っていたのだが入口が分からず、教会横に小さな建物があり、門に人がいたので、了解をもらい中に入れてもらった。扉を開けて中に入ると教会の、特に古い教会の独特の香りが押し寄せてきて、何人もの女性達がベールの被り物をして牧師の注ぐ赤いワインとパン一切れをもらい、中を円になって歩いていた。それを囲むように信者の人たちは涙を浮かべているようにも見える。少し疲れた風貌で、綺麗な服装ではないような人もいる。まさか久しぶりの海外の教会でこんな真正のミサに遭遇してしまうとは思っておらず、たじろいでしまった。目の合う人は自分の方を怪訝そうな眼付で見る。こんなアジア人が真摯にミサを行っているところに覗きに入ったようなものだ。それでもその光景があまりにも叙情的で、ましてこの戦時中の最中であり、気持ちが高ぶってしまいそこから動くことができなかったが、あまり長居はせずに外に出た。出ると浮浪者のような人から寄付を迫られたが、あまり現金を持ち合わせておらず断ってしまった。隣に大きな教会があったが入口は閉まっていたのでテラジェに向かった。

テラジェの通りはショッピングストリートになっていて沢山の人が歩いている。そこからカレメグダン公園が観光スポットとして有名なので向かってみると公園の入り口に小学生の団体や観光客が沢山集まっている。長閑な公園で奥の方へ行くとそこに要塞跡地があった。その入り口の門の近くに内戦時の戦車や砲弾が何台も並んでいて、まさに初期の宮崎駿、ルパンのカリオストロの城のように映った。というかカリオストロの原形ってここなのかというくらい似ている。城、共産主義、戦車、時計台の塔まであった。しばらく散策しテラジェに戻る。ベオグラードの教育関係のミュージアムがあったので入ってみると小学校なで使われてきた古い人体模型や教科書、教室、制服などが展示されていて興味深い。

昼になったので昨夜行ったレストラン街のスカダルリヤへ行きDva Jelenaという老舗のレストランに入る。入ると内装は内戦時に会議か宴会にでも使っていたような雰囲気で何人かがテーブルを囲んでいる。薄暗い室内は時が止まっているかのようだ。食べたのはチーズを豚肉巻きにしてグリルしたデミグラスソースがかかったもの。肉は柔らかくてチーズが濃厚でどことなくバルカン半島の民族的な味がした。そこで一人のアジア人の男に「Hey」と声を掛けられ、「中国人か?」と聞いてきた。日本人だと答えると彼は上海から来て1ヵ月クロアチアからボスニア、セルビアとバルカン半島を周っているとのこと。英語の発音が妙に良く、セルビアで会った初めてのアジア人だった。中国人のパック旅行の団体も最近はそれほど多くはなく、こういう一人旅の中国人も増えてきたように思える。

店を出て一度ホテルに戻り休憩をして、リュビツァ妃の屋敷を訪れる。誰なのかはとくに知らないが、19世紀のバルカン様式の内装ということで、様々な部屋がある屋敷で客席は大きな絨毯が敷かれてアンティークの家具に囲まれ居心地が良い。飾ってある絵も家主の肖像画だろうか。ここに住んでいたのだという威厳のある眼差しでこちらを見ている。ホテルモスクワの内装もそうだがベオグラードがこれほど住居や建築を楽しめる街ということを知っている人は少ないのではないだろうか。そのまま国立博物館を覗き、半分新鮮で半分退屈な絵画や展示品を見る。

日が暮れてきたので夕食に女性がやっている家庭的なイタリアンの店に入る。ゆっくり寛げる小さなかわいい食堂で2階に通される。出されたペスカトーレと赤ワインは美味しく、クロアチアが近いからだろうか、海鮮と味付けは非常に美味であった。ついでに食後に勧められてティラミスまで食べてしまった。ベオグラードで食べた料理はワインを入れても日本円で2千円程度なので、このインフレと円安の時期には非常にありがたい。

ほろ酔いで店を出て、夜の街を散策してホテルへ戻る。大体の観光名所は見終わった。Google mapの交通機関がベオグラード市内の交通機関とリンクしておらずMoovitというアプリを使うそうなのだが、明日はこれを使ってトラムに乗って遠方まで出かけてみよう。夜のホテルの1Fレストランは席が客で埋め尽くされており、煙草や酒を楽しんでいる男友達の集まりから写真を撮ってくれと言われて撮影すると、レンズ越しに気持ち良さそうな上機嫌な顔が並んでいた。

憂鬱の推移 「セルビア ベオグラード3」

ドバイからベオグラードまでのフライトはエミレーツ傘下のLCCのようで、座席は狭い。なので座っているのがしんどいので通路に突っ立ていた。意外と他の人も立っている。そしてやっと機内で水が出たので水分補給ができた。ドバイ空港では水が800円もするのでバカバカしくて我慢していたのだ。小さいカップに入った水を2杯貰い一気に飲み干す。機内は中東区域の上空のせいか暑い。6時間の妙に暑くて座り心地の悪いフライトが終わりベオグラードの空港、ニコラ・テスラ空港に到着した。空港の名前はテスラ博士からとられている。旅先としてはマイナーな国だがテスラ博士の名前を聞くと忘れられた国に何か企みがあったような気がしてくる。

空港はやはり社会主義仕様で照明も暗くて歓迎ムードはない。掲示板にはWelcomeと書かれたポスターがあったが、全くそういった気配はなく沈んだ灰色の景色だった。パスポートチェックを終えて、とりあえず現金を下ろそうとしたが、空港内のATMだと金額指定が大きい額ばかりではあったが、無一文なのでやむを得ず大きな額で引き出した。セルビアのレートは日本円とほぼ同じくらいなので計算する必要はない。

ガイドブックには空港から市内へのバスが出ているとのことだったが、数年前のガイドブックなので、記載してあるバスは見当たらず。みんなが並んでいるバスの運転手に聞くと不機嫌な顔で「シティ、センター」と言われた。チケットを買おうとすると大きな紙幣しかなったので「細かい額は持ってないのか?」と聞かれ、ないと言うと、かなり不機嫌そうに釣りの紙幣を一枚一枚、バン!バン!と車内の棚に叩くように返してきた。この時、相当怒っているというのと、なぜか海外のこの排他感に嬉しくなってしまい、いよいよ3年半ぶりに海外に到着した気持ちに高ぶってきた。

気候は秋晴れ。今年の日本の残暑の残る10月よりは涼しく感じられた。荷物をバスの後ろに入れろと言われたが、すでに荷物がいっぱいで入らないと運転手に告げるとまた苛立った表情で車の後ろを開けて荷物の整理を始めた。この時の顔は激怒寸前のようだったので近寄らないで話しかけずにいた。セルビア人はみな背が高くて厳ついのだ。

やっとバスが出発し1時間程度揺られ、窓からの景色は古びた社会主義の建築が寂しそうに見える。バスステーションで全員降りてホテルに向かう。道沿いの建物は壁のタイルが剥がれ落ちれていたり看板は年期が入っていてどれも時代を感じるものばかりだ。目の前を赤いトラムが走っていく。電線と車体がパンタグラフという器具で繋がっていて、結構な速さで荒い運転をしていた。ホテルへの道のりは坂が多く、どうやらベオグラードは上り下りの坂の多い街のようだ。街角の建物は落書きが多く、店は骨董品のような雑貨や流行からは遠い婦人服のブティックなどが連なっていた。

予約してあるホテルはホテル・モスクワというホテルだ。創業が1906年。100年以上も戦禍に耐えながら続いている宿なんて聞いてしまったら、値段はともかくとして泊まらない訳がない。坂を上り終えると広場に出てそこに緑の屋根の小さな城のような建物がホテルだった。ここで写真を撮影している人も多く、街の中心的シンボルのようであった。このホテルは「セルビア紀行  日本人が知らない東欧の親日国 」という現地駐在員だった著者、丸山純一氏が非常に薦めていたので予約をしてみたが、エントランスに入るとそこは18世紀頃の宮殿のようだった。壁の装飾、絵画、ふかふかと柔らかすぎる赤いソファ、1Fにはレストランがありピアノを弾いている音が聞こえてくる。エントランスでチェックインをして、スタッフの女性は英語はまぁ通じるが途中からフニャフニャして発音がよく分からなくなってしまった。部屋へ行くとそこは遠方から宮殿に一人で泊まりに来たらこういう狭い部屋へ通されるのだろうなという、こじんまりした角部屋だった。ベッド、壁紙、デスク、シャワールーム、全てが時代を感じるものばかりだ。使い勝手は良くはなく、時代物を楽しむという気持ちで解決させるしかない。セルビアのトイレや椅子は兎に角座高が高くて使いづらい。セルビア人の身長のせいだろうが、背中と腰を痛めていた自分にはきついものがあった。

時刻は夕方になりそうだったので、すぐに街へ繰り出す。夕食のレストランを探しにクネズミハイロ通りという街の中心を走る遊歩道を歩く。社会主義のユーゴスラビア時代の建物とビザンチン建築が交互に目の前に現れる。歩いている人の愛想はなく、ここはよそ者は入れないよ、というような雰囲気を醸し出している。アジア人はおらず、西欧の観光客も見かけなかった。セルビアの男性は背が高く、K1選手のミルコみたいな風貌の人や、髭をたくわえた人が多く、女性はアイシャドーが濃く、魔女のような女性を見かけた。並んでいる店も日本や西側諸国では見かけないブランドが多い。ここは異世界だ。

到着したばかりだが、意気揚々とレストランを探し歩く。スカダルリヤという地区に到着するとそこは石畳の歩道にレストランが何軒も並んでいる。風通しのいい街並みで寛げるような地区だ。とりあえずセルビア料理を食べようとそれの店に入る。メニューには色々書いてあったがスタッフがバーベキューがいいとお薦めしてきたのでそれと赤ワインを注文した。店内は半分テラスになっているような屋根付きの店で夕方なので少々風が入り寒いが洒落ている。

料理がテーブルに置かれるとポークグリルとソーセージ、サラミ、ポテトフライが添えられている。22時間のフライトを終え、もう出発から25時間くらい経っていたであろうか、赤ワインを一口飲み、ポークグリルを食べると、肩の力が一気に抜け落ちた。もうここがどこなのか分からなくなるような移動と時間軸、疲労感があり、状況の把握は明日からにしようと思った。しかしそんな寛いでいる間もなく、出迎えにセルビア音楽のバンドが演奏を始めた。どこかで聞いたような曲かはすぐ分かったが、ユーゴスラビアの誕生から終焉までを描いた映画「アンダーグラウンド」で始終鳴り響いていた民族音楽であった。

日が沈み満腹で店を出ると気温は一気に下がり真冬のようであった。冬服は持ってきておらず、明日からどうしようかと思ったが、足早にホテルに戻り、シャワーを浴びて寝ることにした。窓からはベオグラードの街並みが綺麗に、そして少しぼやけて見えていた。