2020年から2021年になったわけだが、新しい年が始まったというよりは、前の年から続いているような、というか後編が始まったとしか思えない。ラジオを聞いていたら2020年と2021年は合わせて1年になるようなことを話していたのだが確かにそんな感じだ。
2020年ってTwo thousand twentyでしょ?で、2021年がTwo thousand twenty one. 数年後は、「あー、トゥーサウザンとトウェンティワンの時ねー、あの時はああだった、こうだった、んだんだ」のように9.11や3.11のように語呂よく語られるようになるのだろう。一抹の不安は2021年が後編で終わればいいのだが、実際は2022年が完結の3部構成だったらそれはさすがに長編すぎる、と心配になってしまうのだが。
とにかくだ、今年は後半戦であって、夢も目標もなく、昨年と同じ生活が繰り返されることへの苛々と諦めしかない。まさに空洞の2年間。というか、今もって深刻化している状況で先が見えない。もう分かった、この1年で十分我々人類についてはあれやこれやとテレビでもネットでも動画でも雑誌でも取り上げたのだし、もうこれ以上に反省や考え直すことはない。人間がやりすぎた生き物であることも分かった。頼む、この檻から出してくれと全国民が思っているのなら、ありうるとすれば、今年国民は緊急事態など我慢できずに脱獄するということだろうか。
今このコロナ禍で人々が気付いたことはと言えば、「しまった、やりすぎだった」こと以外に何もない、とは菊地成孔さんのラジオでの発言。人はやりすぎる為にこの世に繁殖した生き物で繁殖もしすぎ、なわけで、かのジョルジュ・バタイユもそう仰っており、「生きることは狂ったように、だが永遠にサイコロを投げることだ」と。
このブログを書いている時に、実は近々行う予定の、某専門学校から講師依頼の文書が届き、それの台本を書いていたのだが、緊急事態宣言の為に延期になり、ならば休暇になると思っていたら、話の内容をテキストに書いて送れとのことで、またテキストを書くのかとまさに今、同時進行で書いている。話す内容の中に学生に向けての言葉などがあるのだが、この空洞の2年間において、それをどう伝えればよいのか考えていたが、世の中の悪い歯車の話などをするよりは、着眼力を身に着けて物事の本質をつかみとる力をつけるにはどうすればよいか、を話すことの方が学び(笑)があるのでは、と思った為、それがテーマにはなった。
それにしてもこの年齢にもなると、実際には特にこちらから熱心に学生にむけて何かを伝える気力などそれほどなく、依頼されれば勿論するが、もしくは学生から質問があれば返答するくらいのモチベーションになっている。しかし、もしも何か新しいことをするなら若いやつとツルめという言葉があり、自分は若い人は大好きであり一緒に行動するのも楽しいのだが、おそらく同じ目線で話合うのと講義はまた違ったものなのだろう。まぁ、これまでめちゃくちゃな生活をしてきたわけで、自分などよりも管理職やインテリゲンチャの優秀な人など五万といるので、そちらから学生に向けて話したほうが良いと思われるのだが、何故自分が選ばれるかが、いつも謎だ。でもおそらくこれは自分に課されたミッションなのだと思い、ひたすらテキストを書くことにする。それに普通のインテリの優秀な方が学生に話をすれば、学生たちは普通のインテリ人として繁殖する可能性があるわけで、目障り此の上ない。やはり、自分が話をするべきなのか?