今、この昨年11月の八重山諸島の文章を書いているのが2022年1月下旬であり、コロナ感染者がオミクロン株によって増加し、まん延防止法が施行されて外出も制限されることとなっている。
結局は昨年10月頃から今年1月までの期間が数ヵ月間の休戦状態だったかのようで、また空襲が始まった気がする。僕らはきっと昔から何かに恐れずに動ける時に動けるか、待つべき時に待つことができるかという能力を試されているようだ。ということを宇多田ヒカルの新作のBADモードを聴きながら書いているのだが、この人の自由すぎる突き進み方があまりにも強烈で歌も後ろの音も非常に痛々しいのだが清々しい。
波照間島へ出発する朝、石垣島の空は快晴。今日は運航するだろうと7時にフェリー乗り場へ向かう。運航表示を見ると一日すべての3便が運航予定になっていた。石垣島にはあと1日の滞在であったので何とか間に合った。波照間島へはフェリーに乗り約1時間で到着する。現地では売店も少ないのでターミナルで飲み物を購入しフェリーに乗り込む。フェリーでは船内にも席もあることが後になってから分かったのだが外のデッキシートの波が跳ね上がってくる方に座ってしまっていた。それはそれで東南アジアのアイランドホッピングのようで良かったのだが。
結構な揺れの中、波照間島へ9時過ぎに到着。フェリーから降りるとレンタサイクルなどの案内の車が止まっていたので車に乗り込む。自転車かバイクを選ぶことができたので、ここは迷わずスクーターを選んだ。自転車だと一周するのに3時間かかるそうだが、いかんせん自分のような中年に自転車で島中を真夏の気温の中走る行為は避けたく、そしてスクーターで島中を走り回りたい衝動に駆られたのでスクーターに跨った。隣にいたおじさんもスクーターに跨ったが操作方法がよく分からず「お兄ちゃん、これどうやるの?」と聞かれたのでアクセルをかけてあげると京都から来た50代のおじさんが小学生のように嬉しそうに挨拶をして消え去る様に走り去っていってしまった。夏の島というものは人を馬鹿同然に自由にさせる。これもまた痛々しくも清々しいのかもしれない。
自分も遅れをとるまいと、波照間島で有名なニシ浜というビーチを探しにいく。一応google mapも使えるのだが、バイクを走らせて小さな島のビーチを自由に探し回るだけで地図などなくても良い。バイクを港から10分も走らせればニシ浜はすぐに見つかった。ニシ浜への下りの坂道をバイクでゆっくり降りていき駐車場へ停めて砂浜の方へ歩いていく。時間はまだ午前10時にもなっていない。ハテルマブルーという言葉を聞いてはいたが、名称をつけるくらい海は存在感のある色をしていた。その前では到着したばかりの誰もが言葉を失くしていて、始めは口を開かない。ゆっくりと波際の近寄っていき様子を見ている。これが何なのか、初めて見るような目で海を見る。どうしてこんな色なのか、何故こんなに透き通っているのか、そしてそんな浜辺には人は数えるほどしかいないのだ。ここはまさしく秘境と呼ばれてもおかしくはない何かを放っている。誰にも教えたくない、来てもらってほしくはない秘密にしたい楽園。過去に澄んだ綺麗なビーチは海外でも行ったことはあるが、ここは何かが違っていた。人を寄せ付けない何かが。きっと誰にも教えたくない楽園というのは世界中のどこかに隠されていてきっと調べてもすぐには出てこない。そんな想いの詰まった場所、その一つがここなのかもしれない。
音のないニシ浜で写真や映像を撮影したり浜辺を歩いたり座って海を眺めたりしていたが、もはやここで全ての目的は達成されてしまったようにも思われた。もう何もしなくていい。しかしまだ昼にもなっていない。行くべきところはまだあり、それは日本最南端の岬。最南端へ来るためにこの島へ来たのだ。もう地図を見るのもどうでもよくなり大体の方角を決めてバイクを走らせる。時折、自転車に乗った人々とすれ違ったりする。相変わらず道路に信号はなく真夏の日差しは強く腕や首がじりじり焼けていく。青い空と夏の日差しとサトウキビ畑、もうここが日本なのかどこなのかもよく分からなくなってくる。夏という事実だけだ。自分は今、夏という国にいる。
最南端の碑を探している途中、綺麗なビーチを発見したりしながら適当にバイクを走らせる。そうしていると最南端の碑、集落、などと書かれた看板が道に立っていた。その方角にバイクを走らせるとそれらしき岬があった。歩いていくと日本最南端の碑が立っていて、その最南端は広い岩場になっていた。断崖の海が見たく岩場を歩いていく。そこから見える海の先にあるのは台湾やフィリピンだ。パンデミック中の為、こんなにも近いのに行くことはできない
こんな時代に、ここから眺める南半球は格別だ。そうだ、せっかくだから自分の写真を撮ってもらおうと思ったが、周りに誰もいない。そりゃこんな行きづらい島の最南端へそう簡単に人なんて見つからない。しかし遠くに二人組の男性がいた。こっちに来ないか待っていると近づいてきて、写真をお願いした。すると相手も喜んで自分達も撮ってほしいと言うが、確かに頼む相手が自分以外に誰もいないのだ。二人は大学の卒業を控え卒業旅行で来ているとのことだったが彼らも旅に出たタイミングがいい。
ちょうど昼になっていたので昼食を食べに「集落」と看板に書いてあった方向へ適当にサトウキビ畑の中バイクを走らせる。集落に着くと古民家が立ち並んでいる。売店があったのだが午後は数時間閉店していると書いてあり、さすが南の島時間だ。売店は休憩時間の為、何も買えない。観光に来ているような若者数人が歩いており、おそらく数日この島に滞在しているのであろう。かなりゆるい雰囲気でタンクトップと短パンでゆっくりと強い日差しの中を歩いている。自分も予定を立てずに一度ここに数日間滞在してみたいものだ。特に見たいものが夜の星空。とにかく物凄い数の星雲が目視で見られるそうだ。いつかまたここに戻ってきたいと願う。
昼食は沖縄料理の定食屋。意外と混んでいた。考えれば店の数もそれほど多くはないのでみな集中するのだろう。中へ入るとそれほど接客には力を入れているわけではない静かな雰囲気。内装はまさに昭和前期のようで扇風機が回り、本棚には古い漫画や雑誌が立てかけてある。そこには島の住民専用のテーブル席があったりする。そういう光景からなんというか島というところに住んでいる人々はプライドがあるように思われた。プライドなのか侵略という行為に構えているのか、そのどちらも含んでいるのだろうか。
テーブルに座りまずはアイスコーヒーを飲む。11月こんなに暑い日にビーチへ行ったりバイクに跨ったりしていたこともあり、そんな後に飲むアイスコーヒーは今年一番美味しかったアイスコーヒーだったのかもしれない。食べたのはラフテー定食。ごはんは”もちきび”、”黒柴米”が混ぜてあるそうだ。こういうメニューというものは現地の味なのであろうか、非常に現地で作られた味がする。現地の人が作っているのか分からないが、ここは現地だ。なのでこれは現地の味なのだ。感想は美味しいとか不味いと言うより、こんな小さな何もない島で作られる料理はこういうものなのだな、という味だった。
昼食を食べ終わり、帰りの便は16時20分の為、店を出て他のビーチを探しにいく。ビーチを探しに行く途中はヤギが何匹も飼われている光景を見ることができたりするが、人は誰もいない。林のある道沿いで「すいませーん!ちょっと手伝ってもらえますかー!」と大きな声が聞こえたので行ってみると軽ワゴン車が側溝にタイヤを落としてしまい、奥さんがハンドルを握り、父親と子供2人で押し上げていた。そこに自分も加わり何度も何度も押すことになった。最初は全く動かなかったが方向を変えて押すと車が勢いよく側溝から出ることができた。ちょうどその時、車のレンタカー店が助けに来たがもう事は済んでしまった。旅中は色々なことが起こる。タトゥーが腕に入った若いお父さんは「良かった、お兄さんが手伝ってくれなければ帰れなくなっていました。本当にありがとうございます。」とお礼を言われ、またビーチへ向かう。次に見つけたビーチも綺麗で人はほとんどいなかった。最後にまたニシ浜を見たいと戻ってみた。ニシ浜には何人かがじっと海を見ており、自分もしばらく海を見ていた。もうそれしかやることなどここにはないのだ。何もやることがないということと目の前あるブルーの海。時間はゆっくり進んでいく。
そろそろバイクを返却しようとレンタカー店舗へ行くが店員は誰もおらず、返却したらサインを記入することになっており記入をしてフェリーターミナルへ歩く。まだ時間があったので、テトラポットの方へ向かう。そのテトラポットから見る波照間島の海の色がこれぞハテルマブルーという色なのだろうか。少し色が濃くそして透き通っておりカクテルのような良い色をしていた。
ターミナルでフェリーを待つ間数少ない土産物屋で土産を買う。こんな島の土産などなかなか買えないものだ。そこへ先ほどの車を押してあげた家族が来て、「お兄さんだ!さっきのお兄さんがいるぞー!本当にありがとうございました!!」と家族からまたお礼を言われてしまった。確かにこの時間のフェリーに乗るのであれば、さっきの車が走ることができなければフェリーの時間に間に合わなかったであろう。それにしてもすごい喜びようだ。やはり夏の島は人をこんなにも無邪気にさせるのだ。若いお父さんの腕のタトゥーもそんな雰囲気に合っている。
帰りのフェリーに乗ると満席状態だった。船内に入れない人は外のデッキシートに座っていたがフェリーが運航すると波が非常に荒いためびしょびしょになってしまい中へ入ってきた。1日島中で遊び尽くした為帰りは少し眠ろうと思ったのだが、夏の海はそんなこともさせてくれなかった。びしょびしょになったおじさんが隣に座ってきた。「いやー、濡れちゃって参ったよ」、「大変でしたね」と返しそれくらいの会話で済むかと思っていると旅程を聞かれ「お兄さん、自由だね!若いのに。いいなぁ」から会話は始まってしまった。おじさんは定年退職をしてあちこちに旅行へ行っているそうだ。与那国島へ行ったということで、「最西端ですね、台湾も近い。台湾は好きなんですよ」と話すと、このおじさんも何度も台湾へ行っているようで、おじさんは「中国、インドもよかったなぁ」と話し始め、自分も行ったことを話すと、おじさんは「お兄さんも海外へ行ってるんだ?チベットもいいよ」と話は結構な渡航距離の話題になってしまった。ヨーロッパ、中東はイスラエル、北米、南米と行った国は共通していて、行った国について話されれば自分もそれに返してしまう。
そしておじさんが行った旅先で一番良かった国はケニア、場所は国立動物公園。大自然の中を様々な野生の動物が生活しているのを目の前で見られるのだ。自分も前から行ってみたいとは思っていたが、非常に薦められてその気になってしまった。そうこうしているとあっという間にフェリーは石垣島へ到着した。おじさんからは、「いやー、一緒に話せて良かったよ。ツアーだけど一人で来ちゃってるしね。でもお兄さんは何で若いのにそんなに自由なの?いいよねー。それじゃまた、ありがとうね。」と言い別れた。
自分でもよく分からないが、とにかく自分の見た目は自由そうに見えてしまうようだ。不思議に思うのはこうして旅に出ると、何故か結構な回数の渡航歴がある人が向こうから近づいてきたり、隣の席に座っていたりする。そしてお互いに過去の旅の記憶を呼び起こし、おせっかいにも次に行ったほうが良い旅先まで教えてくれるのだ。旅に出ることにより、こういった出来事が何度も何度も続く。結局、僕等はこの地球上の土地を歩きまわり、人とぶつかり合いお互いに刺激を分け与えながら先に進んでいく。そういったことが昔からの人の習慣であり生存手段なのではないのだろうか。そういった先に進みたい人、何かを求めている人はこうして旅先で必ず出会う。そして何かしらの言葉を自分に置いていってくれるのだ。