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九州一周の旅 1日目

さてと、まずは期間は8泊9日間。
鹿児島を出発地点して長崎を目指す旅程になっている。


成田空港から鹿児島空港に午前中に到着してレンタカーで鹿児島市内へ。気温はやや高くて初秋のような気温。レンタカーの値段がやはり高くて9日間Vitzクラスで8万円強。まぁ、車がないと一周も横断もできないのでこれはしょうがない。

昼頃に鹿児島市内に到着したので昼食はやはり鹿児島名物が食べたく調べてみると近くに「あぢもり」というしゃぶしゃぶの有名店があった。入ってみると、とんかつ定食を薦められたのだが、しゃぶしゃぶのことを聞くとしょうしょうお待ちくださいませと待たされ、どうやら予約必須だったようだ。上の階の座敷に案内されて着物を着たスタッフが肉と具材を持ってきた。初の一人しゃぶしゃぶ高級店(笑)個室の座敷が立派でなんだか接待でもされてるようで料理もだし汁もかなり美味い。汗をかいてしまい、店を出て天文館という変わった名前の商店街を歩く。この天文館という商店街が街のへそのようだ。商店街は昔ながらの雰囲気で昭和感が残っていて人も沢山歩いているので好きな雰囲気だった。やはり地方都市はいい。

その後、薩摩藩、島津家の仙巌園を見学する。この庭園からの桜島の眺めがかなり良くて、屋敷の中も和洋中が混ざったような独特の内装と家具であった。そこから車を走らせ西郷隆盛像や御桜門のあたりを歩き、日も暮れてきたので有名な城山ホテルへチェックインする。

チェックインしてすぐに桜島を見ながらホテルの温泉に浸かり、夜は天文館を和牛を求めて彷徨い、やっと見つけた店で和牛ステーキ。フィレを切らしているというのでシャトーブリアンを薦められ、一口食べて「あの、すいません、感動しました」と料理人に伝えながら赤ワインを何杯も飲む。たしか五杯は飲んだ。そしてラムシンのステーキ100gをお代わりして店を出た。

すっかり酔って気持ち良くなったので帰り道に見つけたジャズBARに入ってマスターと他の客と閉店まで盛り上がり、エディット ピアフからユーミンまで色々聞かせてもらう。戦時中に聞くピアフのレコードはいつもとは違う。

すっかり遅くなってしまいタクシーで丘の上にある城山ホテルに戻る。城山ホテルは街に出るのに送迎バスを出してくれる昭和で少しハイソなホテル。そのまま倒れるようにベッドに入り込んだ。

ピアフの歌を聞いていた後に、以下の文章を見つけた。

人間は、幸せだから歌うのではない、歌うから幸せになるのだ
ウィリアム・ジェームス

九州一周の旅 ダークなまっぷる九州旅行支援ツーリズム (その壱イントロダクション)

仕事上、今年の夏休みを取らないとならないことになっていて、しかしコロナの感染者も増えてるのでいつにしようかと思っていたのだが、10月あたりいいんじゃないかと適当な日程を申請していたら、申請していた日がちょうど旅行支援のスタートする日に被ってしまい、支援されるおめでたい奴な旅になってしまった。

本当は混むので嫌な気もするのだが、日に8,000円も還元されるのならと思い、ちょっとプランを練るのを頑張ってみた。行先は九州あたりかと前々から考えてはいたのだが、同時に負の遺産を巡るダークツーリズムの入門書を読み、それの正反対のまっぷるの九州ガイドブックも並行して読んでいた。読んでる矢先、一週間前くらいにいきなり旅行支援のスタート日が発表されたもんだから、agodaサイトで予約してたホテルはどーなるんだ??と謎だらけの旅程で出発になった。この時、最初の鹿児島と黒川温泉宿は電話で直接予約に変更しており、他のホテルは仮予約になっていた。

ここで、「ダークなまっぷる九州旅行支援ツーリズム」にテーマが決まり成田空港から出発することになった。初日の九州は鹿児島から始めることにした。

島と海の世界-八重山諸島 4【波照間島】

今、この昨年11月の八重山諸島の文章を書いているのが2022年1月下旬であり、コロナ感染者がオミクロン株によって増加し、まん延防止法が施行されて外出も制限されることとなっている。

結局は昨年10月頃から今年1月までの期間が数ヵ月間の休戦状態だったかのようで、また空襲が始まった気がする。僕らはきっと昔から何かに恐れずに動ける時に動けるか、待つべき時に待つことができるかという能力を試されているようだ。ということを宇多田ヒカルの新作のBADモードを聴きながら書いているのだが、この人の自由すぎる突き進み方があまりにも強烈で歌も後ろの音も非常に痛々しいのだが清々しい。

波照間島へ出発する朝、石垣島の空は快晴。今日は運航するだろうと7時にフェリー乗り場へ向かう。運航表示を見ると一日すべての3便が運航予定になっていた。石垣島にはあと1日の滞在であったので何とか間に合った。波照間島へはフェリーに乗り約1時間で到着する。現地では売店も少ないのでターミナルで飲み物を購入しフェリーに乗り込む。フェリーでは船内にも席もあることが後になってから分かったのだが外のデッキシートの波が跳ね上がってくる方に座ってしまっていた。それはそれで東南アジアのアイランドホッピングのようで良かったのだが。

結構な揺れの中、波照間島へ9時過ぎに到着。フェリーから降りるとレンタサイクルなどの案内の車が止まっていたので車に乗り込む。自転車かバイクを選ぶことができたので、ここは迷わずスクーターを選んだ。自転車だと一周するのに3時間かかるそうだが、いかんせん自分のような中年に自転車で島中を真夏の気温の中走る行為は避けたく、そしてスクーターで島中を走り回りたい衝動に駆られたのでスクーターに跨った。隣にいたおじさんもスクーターに跨ったが操作方法がよく分からず「お兄ちゃん、これどうやるの?」と聞かれたのでアクセルをかけてあげると京都から来た50代のおじさんが小学生のように嬉しそうに挨拶をして消え去る様に走り去っていってしまった。夏の島というものは人を馬鹿同然に自由にさせる。これもまた痛々しくも清々しいのかもしれない。

自分も遅れをとるまいと、波照間島で有名なニシ浜というビーチを探しにいく。一応google mapも使えるのだが、バイクを走らせて小さな島のビーチを自由に探し回るだけで地図などなくても良い。バイクを港から10分も走らせればニシ浜はすぐに見つかった。ニシ浜への下りの坂道をバイクでゆっくり降りていき駐車場へ停めて砂浜の方へ歩いていく。時間はまだ午前10時にもなっていない。ハテルマブルーという言葉を聞いてはいたが、名称をつけるくらい海は存在感のある色をしていた。その前では到着したばかりの誰もが言葉を失くしていて、始めは口を開かない。ゆっくりと波際の近寄っていき様子を見ている。これが何なのか、初めて見るような目で海を見る。どうしてこんな色なのか、何故こんなに透き通っているのか、そしてそんな浜辺には人は数えるほどしかいないのだ。ここはまさしく秘境と呼ばれてもおかしくはない何かを放っている。誰にも教えたくない、来てもらってほしくはない秘密にしたい楽園。過去に澄んだ綺麗なビーチは海外でも行ったことはあるが、ここは何かが違っていた。人を寄せ付けない何かが。きっと誰にも教えたくない楽園というのは世界中のどこかに隠されていてきっと調べてもすぐには出てこない。そんな想いの詰まった場所、その一つがここなのかもしれない。

音のないニシ浜で写真や映像を撮影したり浜辺を歩いたり座って海を眺めたりしていたが、もはやここで全ての目的は達成されてしまったようにも思われた。もう何もしなくていい。しかしまだ昼にもなっていない。行くべきところはまだあり、それは日本最南端の岬。最南端へ来るためにこの島へ来たのだ。もう地図を見るのもどうでもよくなり大体の方角を決めてバイクを走らせる。時折、自転車に乗った人々とすれ違ったりする。相変わらず道路に信号はなく真夏の日差しは強く腕や首がじりじり焼けていく。青い空と夏の日差しとサトウキビ畑、もうここが日本なのかどこなのかもよく分からなくなってくる。夏という事実だけだ。自分は今、夏という国にいる。

最南端の碑を探している途中、綺麗なビーチを発見したりしながら適当にバイクを走らせる。そうしていると最南端の碑、集落、などと書かれた看板が道に立っていた。その方角にバイクを走らせるとそれらしき岬があった。歩いていくと日本最南端の碑が立っていて、その最南端は広い岩場になっていた。断崖の海が見たく岩場を歩いていく。そこから見える海の先にあるのは台湾やフィリピンだ。パンデミック中の為、こんなにも近いのに行くことはできない

こんな時代に、ここから眺める南半球は格別だ。そうだ、せっかくだから自分の写真を撮ってもらおうと思ったが、周りに誰もいない。そりゃこんな行きづらい島の最南端へそう簡単に人なんて見つからない。しかし遠くに二人組の男性がいた。こっちに来ないか待っていると近づいてきて、写真をお願いした。すると相手も喜んで自分達も撮ってほしいと言うが、確かに頼む相手が自分以外に誰もいないのだ。二人は大学の卒業を控え卒業旅行で来ているとのことだったが彼らも旅に出たタイミングがいい。

ちょうど昼になっていたので昼食を食べに「集落」と看板に書いてあった方向へ適当にサトウキビ畑の中バイクを走らせる。集落に着くと古民家が立ち並んでいる。売店があったのだが午後は数時間閉店していると書いてあり、さすが南の島時間だ。売店は休憩時間の為、何も買えない。観光に来ているような若者数人が歩いており、おそらく数日この島に滞在しているのであろう。かなりゆるい雰囲気でタンクトップと短パンでゆっくりと強い日差しの中を歩いている。自分も予定を立てずに一度ここに数日間滞在してみたいものだ。特に見たいものが夜の星空。とにかく物凄い数の星雲が目視で見られるそうだ。いつかまたここに戻ってきたいと願う。

昼食は沖縄料理の定食屋。意外と混んでいた。考えれば店の数もそれほど多くはないのでみな集中するのだろう。中へ入るとそれほど接客には力を入れているわけではない静かな雰囲気。内装はまさに昭和前期のようで扇風機が回り、本棚には古い漫画や雑誌が立てかけてある。そこには島の住民専用のテーブル席があったりする。そういう光景からなんというか島というところに住んでいる人々はプライドがあるように思われた。プライドなのか侵略という行為に構えているのか、そのどちらも含んでいるのだろうか。

テーブルに座りまずはアイスコーヒーを飲む。11月こんなに暑い日にビーチへ行ったりバイクに跨ったりしていたこともあり、そんな後に飲むアイスコーヒーは今年一番美味しかったアイスコーヒーだったのかもしれない。食べたのはラフテー定食。ごはんは”もちきび”、”黒柴米”が混ぜてあるそうだ。こういうメニューというものは現地の味なのであろうか、非常に現地で作られた味がする。現地の人が作っているのか分からないが、ここは現地だ。なのでこれは現地の味なのだ。感想は美味しいとか不味いと言うより、こんな小さな何もない島で作られる料理はこういうものなのだな、という味だった。

昼食を食べ終わり、帰りの便は16時20分の為、店を出て他のビーチを探しにいく。ビーチを探しに行く途中はヤギが何匹も飼われている光景を見ることができたりするが、人は誰もいない。林のある道沿いで「すいませーん!ちょっと手伝ってもらえますかー!」と大きな声が聞こえたので行ってみると軽ワゴン車が側溝にタイヤを落としてしまい、奥さんがハンドルを握り、父親と子供2人で押し上げていた。そこに自分も加わり何度も何度も押すことになった。最初は全く動かなかったが方向を変えて押すと車が勢いよく側溝から出ることができた。ちょうどその時、車のレンタカー店が助けに来たがもう事は済んでしまった。旅中は色々なことが起こる。タトゥーが腕に入った若いお父さんは「良かった、お兄さんが手伝ってくれなければ帰れなくなっていました。本当にありがとうございます。」とお礼を言われ、またビーチへ向かう。次に見つけたビーチも綺麗で人はほとんどいなかった。最後にまたニシ浜を見たいと戻ってみた。ニシ浜には何人かがじっと海を見ており、自分もしばらく海を見ていた。もうそれしかやることなどここにはないのだ。何もやることがないということと目の前あるブルーの海。時間はゆっくり進んでいく。

そろそろバイクを返却しようとレンタカー店舗へ行くが店員は誰もおらず、返却したらサインを記入することになっており記入をしてフェリーターミナルへ歩く。まだ時間があったので、テトラポットの方へ向かう。そのテトラポットから見る波照間島の海の色がこれぞハテルマブルーという色なのだろうか。少し色が濃くそして透き通っておりカクテルのような良い色をしていた。

ターミナルでフェリーを待つ間数少ない土産物屋で土産を買う。こんな島の土産などなかなか買えないものだ。そこへ先ほどの車を押してあげた家族が来て、「お兄さんだ!さっきのお兄さんがいるぞー!本当にありがとうございました!!」と家族からまたお礼を言われてしまった。確かにこの時間のフェリーに乗るのであれば、さっきの車が走ることができなければフェリーの時間に間に合わなかったであろう。それにしてもすごい喜びようだ。やはり夏の島は人をこんなにも無邪気にさせるのだ。若いお父さんの腕のタトゥーもそんな雰囲気に合っている。

帰りのフェリーに乗ると満席状態だった。船内に入れない人は外のデッキシートに座っていたがフェリーが運航すると波が非常に荒いためびしょびしょになってしまい中へ入ってきた。1日島中で遊び尽くした為帰りは少し眠ろうと思ったのだが、夏の海はそんなこともさせてくれなかった。びしょびしょになったおじさんが隣に座ってきた。「いやー、濡れちゃって参ったよ」、「大変でしたね」と返しそれくらいの会話で済むかと思っていると旅程を聞かれ「お兄さん、自由だね!若いのに。いいなぁ」から会話は始まってしまった。おじさんは定年退職をしてあちこちに旅行へ行っているそうだ。与那国島へ行ったということで、「最西端ですね、台湾も近い。台湾は好きなんですよ」と話すと、このおじさんも何度も台湾へ行っているようで、おじさんは「中国、インドもよかったなぁ」と話し始め、自分も行ったことを話すと、おじさんは「お兄さんも海外へ行ってるんだ?チベットもいいよ」と話は結構な渡航距離の話題になってしまった。ヨーロッパ、中東はイスラエル、北米、南米と行った国は共通していて、行った国について話されれば自分もそれに返してしまう。

そしておじさんが行った旅先で一番良かった国はケニア、場所は国立動物公園。大自然の中を様々な野生の動物が生活しているのを目の前で見られるのだ。自分も前から行ってみたいとは思っていたが、非常に薦められてその気になってしまった。そうこうしているとあっという間にフェリーは石垣島へ到着した。おじさんからは、「いやー、一緒に話せて良かったよ。ツアーだけど一人で来ちゃってるしね。でもお兄さんは何で若いのにそんなに自由なの?いいよねー。それじゃまた、ありがとうね。」と言い別れた。

自分でもよく分からないが、とにかく自分の見た目は自由そうに見えてしまうようだ。不思議に思うのはこうして旅に出ると、何故か結構な回数の渡航歴がある人が向こうから近づいてきたり、隣の席に座っていたりする。そしてお互いに過去の旅の記憶を呼び起こし、おせっかいにも次に行ったほうが良い旅先まで教えてくれるのだ。旅に出ることにより、こういった出来事が何度も何度も続く。結局、僕等はこの地球上の土地を歩きまわり、人とぶつかり合いお互いに刺激を分け与えながら先に進んでいく。そういったことが昔からの人の習慣であり生存手段なのではないのだろうか。そういった先に進みたい人、何かを求めている人はこうして旅先で必ず出会う。そして何かしらの言葉を自分に置いていってくれるのだ。

島と海の世界-八重山諸島 3

朝6時に目覚ましをかけフェリーの運航状況を石垣島港のサイトでチェックすると運航する便と未定の便が表示されていた。昨日の夜に商店街のコンビニ(島にはファミリーマートしかないようだった)で買っておいた朝食のおにぎりと味噌汁を食べて窓の外の景色を見ていると厚い雲がだんだんと引けていく。コーヒーはチェックインカウンターの隣に自由に飲めるようにコーヒーメーカーが置いてあるのでそこでコーヒーを注ぎ部屋へ持ち帰る。そうしていると太陽が昇り始めた。石垣発波照間行の始発が8:00の為、その30分前にターミナルへ向かう。天気は昨日までの曇り空から一転して快晴だ。気温もどんどん上がり季節は夏へと戻った。

今日のフェリーのチケットは前日に購入してあり何かがあればキャンセル変更できるとのことであった。スタッフに今日のフェリー運航状況を尋ねると8:00の始発は波照間まで運行するが、その後の帰りの便13:15と16:20は運航未定の為、出発時刻の1時間前に決定するとのこと。なので、運航しなければ帰ってくることはできない。どうしようか聞いてみると「△マーク(運航未定)の時は止めた方がいいですね、帰って来られなくなる」とのことだったので、チケットを次の日の便に変更して今日のプランを石垣島一周プランへ変更する。この石垣島滞在だけで3泊4日もあるので、残りは二日間。波照間島へはどこかの日で行けるだろう、行けなければプランを変更するしかないと考えていた。それにしても3泊4日を同じ場所に滞在するなんて自分にとっては珍しい、そして贅沢だ。世の中が普通の状況であれば海外の場所と場所を移動しているだろう。しかし、この地のアイランドホッピングをしようと思っても時期が11月だと天気が良くても波が高いのであれば運航はなかなか難しいようだ。フェリー乗り場では他の島へ行く便は色々と出ていたので、旅行客や修学旅行生が大勢集まっていた。

とにかく快晴で時間はまだ朝の8時を少し回ったくらいだ。石垣島は一周するのに車で3時間ということなので、最北端の平久保埼灯台を目指してみることにした。行くまでの途中途中にいくつかのビーチがある。朝の8時に真夏の、しかも快晴の石垣島で今日は何をしようかなどと考えることができるだけで最高ではないか。一人で来てみたが、もはや一人でも二人でも何人でも構わない、何をしてもいいのだ。とにかく急いでビーチ、砂浜を探すことにする。

島は西側にいくつかのビーチがあるので左回りでいくことにする。まずはターミナルすぐ近くの観音崎灯台へ車を走らせる。初めての場所でそれが夏の島であり、音楽を鳴らしながら車を走らせているだけ、それだけでも十分だ。

観音埼灯台に到着して車を停めて少し歩くと小高い丘に灯台がある。灯台へ歩きながら左手に見える海は透き通っていてまるで人が踏み入れたことのないようだ。小さな浜辺があり綺麗な貝が色々と落ちていたので拾ってみたら住民がいたらしく足が出てきてバタバタした。周りをよく見ると沢山のヤドカリ達が歩いていた。こんなに沢山のヤドカリを見られることなんて今まであっただろうか。そんなことをしながらゆっくりして歩いていた。北へ向かわなければならないのだが、もはや時間の感覚がなくなってきてしまっている。

車へ乗り込み次の目的地のフサキビーチリーゾートホテルへ。ここは宿泊者でなくても入れるので行ってみたが、予想を超えて素敵なホテルだった。ビーチのすぐ近くにコンドミニアム的な一軒家が連なっていておそらくここへ宿泊できるのだろう。プライベートビーチとプールがあり、このプールがかなり広くてラグジュアリー感がとんでもない。Flank&Jonesの曲でもかけたくなるようなリゾートホテルだった。しばらくプールでくつろいだ後、やいま村という文化財の古民家が保存されているところへ行く。

行ってみると赤い瓦の古民家が何軒もあり持ち主の名前なども記載されていた。この辺りの昔の家は一年中暑いからだろう、風が吹き抜けやすくなっていて自分の住んでいる場所からは考えられない、隙間だらけの作りだ。歩いていると三線の音が聞こえてくる。高い気温の中で三線の音楽が流れてきて古民家にいると、子供の頃かそれ以前の日本の昔の夏のような感覚に落ちいる。

古民家を過ぎるとリスザルを飼育しているところがあり、入ってみると結構な数の小さな黄色い猿が歩いている。しかも逃げないで遊んでいて観光客も喜んで見ている。外にはガジュマルの木があり季節は真夏であり、まるでパンデミックが終了して夏休みがやってきたようだ。

この後に川平湾(かびらわんと読む)という場所へ到着する。始めはここが川平湾なのかどうか分からなかったが駐車場から綺麗な湾が見えた。その湾の方へ行けそうな茂みと細道があり、細道をその方角へ歩いていった。恐らくみんなが行く川平湾コースではないのかもしれない。もの凄い大きな野鳥がいきなりバタバタと飛び立ったり、ハブ注意と書かれた看板があったりと足を踏み入れたくないような道のりを10分くらい歩いただろうか、目の前にまるで時間の止まった様な光景が現れる。

そこには誰もおらず音すらもなかった。目の前は潮が引いた後の濡れた白い砂に海水が湿っている。潮が引いているので小川が何本も流れている砂浜を跨いで歩いていった。どこまで歩いていけるのかは分からなかったが目の前の先には青い海と山が見える。その小川を跨ぎながら海の方まで近づくと透明な海と山、真っ青な夏の空に包まれてしまい。あぁ、きっと天国とはこういうものなのだろう。こんなところに一人でいると孤独というような気持ちは全くなくなり、寧ろ心地が良い。きっと人生の最期はこんな気持ちになるのだろう。

そうしていると自分が来た茂みの道からKトラックが走ってきた。地元の農家のおじさんだろうか、浜辺に車を停めて海を見ながら休憩をし始めた。遠くの方に二人組の夫婦がゆっくりと歩いていた。それ以外は誰もいない静寂と海水。始まったばかりの八重山諸島であったが、最早ここが旅の最終地点になってしまうくらい幻想的な光景だった。

ちょうど昼になり近くに食事ができるところが何軒かあったので昼食を食べに行ってみた。海が展望できる定食屋でアイスコーヒーと八重山蕎麦と炊き込みご飯のセットを注文した。海を見ながらアイスコーヒーを飲むことなど本州でしかも11月のこの季節にできるものではなく幸福感でいっぱいになってしまう。店は10人も座れないくらいの席数であったが家族や二人組の客が入れ替わって出て行った。この時期にここへ来られるこができた幸運な人々。相当なタイミングと運を掴んでいなければ今この瞬間ここにいることはできなかっただろう。それくらい観光客の少ない本来の石垣島は素晴らしく思える。

この後も山の中を北へ向かって車を走らせ、時折、小道に入るとハイビスカスの花が咲いていたり常に飽きさせない発見がある。サトウキビ畑と山々と夏の青空の中、車を走らせることが日々の生活から自分を解放させてくれるのは勿論、今回の旅は2年間の居室内生活を強いられていたのであって感動の度合いが違う。違いすぎて面食らってしまうくらいだ。

石垣島サンセットビーチに少し立ち寄り、目的地の平久保埼灯台に到着する。石垣島の最北端だ。駐車場は満車で車が並んでいるほどだった。車を停め灯台の方へ上っていくと結構な観光客の数。久しぶりに人を見た気がした。灯台からの海の眺望は素晴らしく、本当に日本の南まで来たのだと感じられた。

時間が15時を回っていたので港へ戻ることにした。日が暮れればこの辺りは真っ暗になってしまう。帰りに明石ビーチへ立ち寄り太陽が沈み始めるのを少し見て(ここには数人の人々がくつろいでいた。)また車を走らせると、サンセットを待っている人達が座っている堤防があった。自分も車を停めてしばらく待っているとどんどん空の色が変わっていく。雲が多かったので日が隠れてしまい、こんなものかとまた車に乗り込み走っていると、右手に燃えるような太陽が海に飲み込まれていく様が見えた。

ホテルへ戻った時には日は沈んでおり、夕食の前に星空を見に近くのスポットまで車を走らせたが月の光が強く星はよく見えなかった。それから夕食をとりに沖縄料理屋へ行く。食べたものは、島豆腐のにんにくしょうゆ、イラブチャーのフライ、てびち。初めて食べた料理であったがどれも美味しかった。店を出てまたファミリーマートで翌朝の朝食のおにぎりと味噌汁を買ってホテルへ戻る。明日は波照間島へ行けるかどうか考えながら就寝した。

島と海の世界-八重山諸島2

レンタカーを借りる手続きが終わり、とりあえずホテルがある方向へ車を走らせる。とにかく電柱と電線、サトウキビ畑しかなく真っ直ぐ進むのみ。ホテルは中心地(石垣島の南方)の離島ターミナルのすぐ近くにある。14時をまわっていたが、昼食を食べてなかったのでどこかで食べたいが何もない。伊藤忠が進出しているのかファミリーマートだけは時折発見する。

中心地のような街並みが見えてきてすぐ船のターミナルへ向かう。今回の目的地である波照間島への運行状況を調べるためだ。駐車場に車を停め安栄観光というフェリー会社へ行くと色々な行先のフェリーの運航状況が電光掲示板に表示されており、波照間島は「×欠航」と書いてあった。明日の状況はどうか聞いてみると当日の朝6時頃にはっきりするということ。今日は夕方近くになっているので、明日また来ることにして、ホテルにチェックインして遅い昼食を食べにいくことにした。

ホテルはWBFというそれほど宿泊費の高くはない素泊まりするにはちょうど良いホテル。しかし室内にはベッドが3つもあった。窓からの眺めは寂れた港町、すこし南米の街並みにも見えた。昼食を食べようと思ったが、すでに15時をまわっていて店は閉まっている。そして石垣島の街並みは先日行った金沢を歩いた自分には少し朽ち果てたような商店街に見えた。とはいえ港町だ。結局だんだんに、この雰囲気が好きになっていく。

ホテルの部屋からの眺め

至る所に居酒屋があるが、大きな看板に「八重山そば」と書いてある店が営業していたので入ってみると、ものすごい数の来店した人の名刺が壁に貼ってあった。そこで食べた八重山そばは非常にあっさりした薄味でもコクのある美味しいそばで、店主が色々と話しをしてくれた。石垣島の物価は非常に高く、家賃も相当で東京と変わらない。移住したい人も多いが、不便なことも多くインターネットで何かを買うにしても離れ島への特別な送料がかかってしまう。そして、「内地」という言葉を使っていた。ここで初めて「内地」という言葉を聞いた。沖縄の人たちは本州のことを内地と呼ぶ。同じ日本国内でありながら、やはり差別的な言い方にも聞こえるが、まだ到着したばかりでその島の人々の意思のようなものはよく分からなかったが、優しいものではなかったと思う。

店を出て街中をぶらぶら歩くが、やはり港町だ、少し変わった建物やビル、居酒屋があちこちにあり、あとは土産物屋だ。考えたら何もない南の島へ行こうと南下してきたのだから都会があるわけがない。

石垣島へ来ようと思ったのは、10年ほど前に知り合いから「国内だと石垣島もいいんですよ、何もなくて。ただ砂浜で寝ているだけでいい。星空はものすごい綺麗だし。」と聞いていたのでずっと頭の片隅にはあった。その人が来た時は今よりもっと何もなかったのだろう。

何もないということ。何もないからこそ、そこに価値があるように思い日本最南端の島である波照間島へ行こうと思った。おそらく波照間島にはあまり人が足を踏み入れていない昔の石垣島のような光景が残っているはずだ。

ホテルに一旦戻り少し休んでから夜また街に繰り出す。だんだんと居酒屋が開店し始めて人も出てきた。島料理と看板が出ていた店に入り、海ブドウ、ゴーヤチャンプルー、グルクンの唐揚げ、オリオンビールを注文した。久しぶりの沖縄料理でどれも美味い。これからの夕食が一週間の間、一人居酒屋になる。ホテルへ戻り明日のプランを考え、波照間行きのフェリーが運航すれば予定通り波照間島。運航しなければ石垣島を車で一周することに決めて就寝。予定は明日の朝に分かる。

島と海の世界-八重山諸島

長い休暇が取れたので沖縄へ向かった。前から休みは決まっていて行く場所はぼんやりとだけど沖縄なんだろうなと、この「だろうな」と思っていたらすぐに出発前日になっていて、前日にアマゾンから旅用のキャリーバックが届いた。11月の遅い夏休みは9日間もある。長期の休みであれば本来ならすぐに海外へ向かっていたはずなのだが、こんな状況であれば仕方がない。仕方がないというには失礼、いや勿体ないくらいの沖縄のアイランドホッピング周遊を5日前に練った。如何せん移動する旅など久ぶりで、ちょうど2年前のジョージア以来だ。ジョージアの帰りの飛行機で自分のキャリーバックは粉々になってしまい、今回リュックサックで行こうと思っていたのだが、さすがに9日分の着替えは入らなかった。

とにかく荷物を届いたばかりのキャリーバックに詰め込み(この作業も久しぶりで、作業していると海外へ渡航する時となんら変わらない)、そして前日に石垣島行の航空券を買う。(国内線Peachの購入が前日だとサイト上からできず、海外サイトから買うというおかしなことになった)休みが一日前倒しになった為、出発日は決まっていなかったからだ。他のホテルや航空券は少しずつ集めていた。買っていたというより、島移動が多いので結構な枚数のチケットになってしまった。

そして、島のフェリー会社やホテルに電話を入れ、現地の天候と移動手段を聞いたりはしていた。日本国内とは言え、ローカルであり、そこは島だ。下手をすると移動して行っても帰ってこられなく場合があり、それは結構よくあることだ。現地では「帰れなくなったら帰ってこなければいい」、と言う人もいた。そんな誘惑もあるが自分は屈せず帰ってくることを心に決めこんではみた。最近、何かの誘惑に勝てる自身が年々なくなってきていて、流されるままに流されやすくなっている。何というか自分の気持ちが良ければそのまま流されてもそこに浮かんでいてもいいじゃないかと、自分に甘く(甘いのは愚かでいけないことなのか、正直でいいことなのかといえば、正直で愚かで清廉なことだと最近思う)なってきた。

今回は9日間浜辺に浮かんでいよう。そんなのんびりしたことを想像していたのだが、現地に到着してからはそんな時間よりも慌ただしい移動があり、その隙間と隙間に時間の止まったような景色を見ることになる。

早朝5時ころに目覚め、6時に自宅から成田空港へ出発し、9時の便で石垣島へ向かう。成田空港はそれほど混んではおらず、コロナ禍収束しつつあるタイミングとしては最高の時期だった。そこにいる人の顔はやっと出発できるといった顔で、自分も2年ぶりに成田空港へ来たわけでターミナル1を歩いていると非常に懐かしく思い、2年ぶりに旅ができるといった顔、いや俺は3年ぶり、いやいや自分なんて5年ぶりだといったような面々が集まっていておそらく目的は一緒のようだった。

4時間後の13時に石垣島に到着し、外へ出るとどんより雨雲がでており、一言で言うと悪い天気。その時、季節は11月だ。それほど暑くはなく半袖のTシャツと短パンばかりを詰め込んできていたので不安になったが、とりあえずレンタカーショップに電話をして迎えにきてもらう。このレンタカーだが今回なかなか空きがなく借りるのに手間取うことになる。航空券を買うのと同じように沖縄ではレンタカーの予約は必須だった。しかし全て現地で電話をしながら借りていった。とにかく車に乗り、石垣島の中心地、ホテルの方向へ向かう。さて、どんな島なのだろうか。そこに信号はほとんど無かった。

一般旅行者と修学旅行生たちの金沢

秋の金沢訪問。タイミングを狙って出かけないと出かけ辛い世の中なので急遽来てみることにした。プランは金沢寿司を食べることしか決めていなかったのだが、街を歩いてみたら非常に居心地の良さそうな街。やはり関東からは時々出ないと内的に何かが不足してしまう気になる。おそらく日本古来の物を普段見ることができているかいないのかで気持ちは変わるようだ。これぞ「和」。

さて、どこへ行くかと、まずは近江町市場へ行き一通り中を周り、江戸時代の頃の茶屋街が保存されている「ひがし茶屋街」へ行く。そこはとにかく修学旅行生が多く、ジャージ姿で結構な数の学生達が茶屋街をうごめいているではないか(笑)こんなジャージ姿の学生が集まっている光景なんて今まで海外などで見たことがあっただろうか、いや多分ない。しかしそれは非常に素晴らしい光景だった。これも「和」。

適当に近江市場で海鮮丼を食べる。そうすると、ここでもまた修学旅行生がテーブルを囲んで真剣に海鮮丼を食べている!しかし、これもまた学生が何かと真剣に向き合っているような光景だった。

兼六園を周り、この間色々と撮影していたのだけど、久しぶりの撮影だったので、勘が戻るのに時間がかかった。今回は金沢と鮨と音楽の組み合わせにする予定だったが、国内の撮影の場合これらを掛け合わせたイメージを膨らませるのが難しい。音楽はどうするか。

翌日、金沢鮨の某有名店に行ってきた。最高の”のどぐろ蒸し寿司”を食べてみたいと3日前に電話をいれ予約を取り、行ってみると無口そうな大将が握っていたのですが、そこで出される寿司はすべて最高で声を出さずにはいられない程。しかし食べ終わる頃にはその大将が気さくに話しかけてくれて、色々な良い話しを聞かせてくれた。寿司職人の人間関係から誰にでも共通しますが先輩と後輩の付き合い方のことなど。カウンターは7席。すべて埋まっていました。

前から行ってみたかった鈴木大拙館。午前中から長居してしまいました。そこは時間が止まっているようで来ている人は水辺と空を見て座りこみ、外の世界とは遮断されてしまいます。現実に戻ってこられない。学習空間、水鏡の庭、思索空間といった空間があり、色々と思索し始めたら動けなくなってしまった。ここの学習空間、学習に集中できる部屋になっており椅子と机があり鈴木大拙先生の書籍が色々置いてあるので、机で読もうと思ったら、机にも何人かの修学旅行生が!そこで修学旅行のレポートを書いている。。。しかも夢中で。まぁ、レポート作成も学習なのでこれが学習空間本来の使い方なのでいいのか。

21世紀美術館。こんなに現代アートが身近にしかも大勢の人が集まるなんて、金沢市民は前衛アートに興味があるとんでもない人達なのだろうか。しかも、結構尖ったファッションの若者が多くて、一体なんなんだこの芸術レベルの高さは?何かの革命前夜なのかとも思ったが、隣にいたお父さんがDoug Aitkenのドロドロした映像を見て「なんだかよく分かんねーなー」と言ってたのでちょっと安心した。あぁ、良かった(笑)

初日の昼は海鮮丼を食べて2日目は有名店で寿司のおまかせコースを食べたので、3日目もやはり寿司。二軒ハシゴしましたが、金沢の「のどぐろ寿司」は美味しかった。今回思ったのは本当に美味しい寿司を食べたいなら多少なりともお金を払わないとならないということで、まぁ、はま寿司くら寿司でも全然食べてますが。しかし、たまには本物を食べないと何が本物か分からなくなるから、今はコンビニでもあんなに美味しい弁当が手軽に買えてしまうので。インスタントに作られる食事が安くて美味しいということに流されてしまうのは良くはないし、怖いという気もするけど何が嫌かといえば、やはり店に行って会話してその人の作った物を目の前で食べる、という行為が生活の中で粋な瞬間であって、そこは腰をあげて出向いていかなければその機会には会うことはできない。ドラマティックな瞬間があるかないかで日々の生活って変わる。

泊まったホテルの受付のスタッフ。4人程おりましたが、僕に何を感じたのか全く分かりませんが、ちょっと話し掛けられ、帰る時にはみんなで次の海外旅行はどこに行きたいかをワイワイ盛り上がってしまいました。スタッフ四人はみんな大の海外旅行好き。次は初インドに行ってみたいという声や、子供を連れてキューバ、サウジアラビア、いやいやイスラエル行った方がいいよ、いやいや若いうちにインドに行っておかないと、私インドは4回行きました、4回も!?帰りの新幹線の時間が近づいているのに、もはや旅の話しが止まりません(笑)

みんなすでに次の旅行プランを考え始めてる金沢の秋です。

ロンドン留学記「あとがき」

ロンドン留学記の「あとがき」を書いてみることにした。留学記のテキストは当時ロンドンから帰ってきてから書いたものなので(2015年の5月頃)、もう6年も前になる。しかしたった6年でこんなにも世の中は変わってしまったし自分も変わった。(自分はこんなにも変わったのに世の中はこんなにも変わっていないともいえる)と今回ブログに投稿し読み返してみて改めてそう思った。因にこのテキストは当時仕事を辞めて通っていた某専門学校へ提出し、講義資料として使い授業を行った。

当時はSNSはもちろん盛り上がってはいたが、インスタグラムやYoutubeなんかはそうでもなかったし、自動翻訳ソフトもまだまだ微妙であったし、AIやテクノロジーの話題も今ほどではく、スーパーのレジ打ちも今より沢山いた。何よりそんなに海外へ行く人は直近の2019年頃より多くはなかった。やはり2015年から2019年へ向けて人の行動はタガを外してやりすぎてしまったようだ。

今日は台風が来ているので外は大雨で部屋でフランスギャルをかけている。フランスギャルなんて18歳の頃以来で久々に聴いているのだが、apple musicで最近ロスレスハイレゾ音源の配信が始まり色々とオーディオ周りの整理をしており、旧譜を検索しているとそういえば友達が先日レコード屋でフランスギャルのドーナツ盤を買っていたのを思い出してかけてみた。ハイレゾではない。しかしこれからハイレゾ用のアンプのDACを購入しないとならないとフランスギャルの旧音を聞きながら考えていた。大雨もフランスギャルも悪くない。時代は月額制のハイレゾ音源配信へ変わった。

当時のテキストで、最初はスペインへ一か月間行こうと思っていたのを1月に体調を壊したこともあり、ロンドンに変えたと書いているが、この体調を壊したというのはその時の年末年始に南米を縦断しており、その期間と内容があまりにもハードだったためだ。旅程は「日本→マイアミ→ペルー→ボリビア→アルゼンチン→マイアミ→日本」。ボリビアの標高4000mの山を越えて高山病とインフルエンザになりアルゼンチンで発熱し、ペルー、マイアミのホテルでずっと寝込んでいた。帰りの飛行機は日本まで約2日半ほどかかるので身体は悲鳴を上げていた。それでも何とか日本へ帰国し、医者へ行くと即入院となり重度のインフルエンザ肺炎と診断され隔離される。医師から「その状態でよく立っていられるな」と言われ、看護士から何か必要なものあれば買ってきましょうか?と言われたので財布の中を見るとアルゼンチンの偽札だろうと思われるペソとUSドルしか入っておらずお願いできなかった(笑)意識は朦朧としており死んでもおかしくない状況で、あれが自分の唯一の臨死体験ではあった。

まず、肺の中が3/4真っ白で呼吸ができない。息を吸うと胸が痛むので苦しい。それは呼吸器をつける手前であった。個室で10日間くらい点滴を受け、食事の味覚はなく、とにかく眠り続けていたが、起きて意識がはっきりした時に航空会社へ電話して3月の旅程の行先をスペインからロンドンへ変更して欲しいと頼んだのだ、身体は半分死んだような状況なのに(笑)というか、この時1月で出発が3月だったので、これからスペインで美味い物を食べまくるのは難しい、ロンドンに変更しようと考えて予約をし直した自分も今思っても馬鹿だなと思う。結局3週間も入院し無事退院することができた。テレビではISISが日本人の人質を殺害していたニュースを流していたりとしている状況で、世界が荒れていたが一度臨死体験のようなものをすると恐れという感覚が何故かなくなってしまい、とにかく自由の身になったのでそのままロンドンへ出発してしまった。

ロンドン留学の時のようなことは、今の自分ではもう体験することはできないが、体験というよりかは当時と同じように感じることはまず無理だ、自分も歳をとっていい感じのおやじになってしまっている。ではあるが、こうなった今の方が別の楽しみ方ができるので、実際ここ数年の欧州の旅は非常に緩くて楽しい。やはり30代というのはまだまだ若い。40代になると受け皿の範囲も広くなり色々なことが許容できるようになる。

当時は食に非常に興味があり、今も勿論あるにはあるが、だいぶ肩の力も抜けてしまい、ステイホームもあってか過去の自分のように、音楽と映画ばかりに興味があった頃のような生活に戻っている。それも非常に楽しい。英語の勉強も続けてはいる。この後、何をするかについては、目標はあるのだが、もう少し時間がかかりそうだ。(Fire)Financial Independence, Retire Earlyというライフスタイルが流行っている、というかは流行るほど誰でも簡単にできるものではなく、これだけが全てではないが、このライフスタイルとその後のライフスタイルを明確にできた者は社会の中で面白い変化をしていきそうだとは思っている。Fire(早期リタイア)という言葉のみだと批難もあると思うが、ではない。リタイアが重要ではではなく、Fireのライフスタイル(作業工程とでも言うのか)はどうでもよく、その先の何を始めるかが重要で社会は変わる。変えた者やこれから変えていくであろう者たちの集まりがどの場所であるかは分からないが、いずれ世界のどこかであるだろう。そこはおそらく国家とか権力といったものとは関係もなく、相当な熱気になっているはずだ。

最初の写真はパリで宿泊していたアパートのエントランスで、ここを様々な連中が通っていた。

ロンドン留学記とベルリンからパリへの移動の記録 13 (最終話)【2015.3.12-2015.3.28】

【3月27日(金曜日)】

パリで久しぶりの快晴。到着後はほとんどの日が雨であった。今日の夕方5時に日本へ戻るので多少時間はある。凱旋門に行ったことがなかったので、そこへ向かう。シャンゼリゼ通りも警備が厳しい。スーパーのMonoprixでBonne Mamanのお菓子を土産に買い、アパートに14時まで荷物を置かせてもらっていたので、それのパッキング。空港へ向かう前にフランスパンのサンドイッチを買いシャルルドゴール空港へ向かう。

飛行機の隣の席に70歳くらいだろうか、男性とその家族が座っていた。ミュンヘンに住んでいる日本人で、子ども2人は孫であった。今回、初めて日本へ孫を連れていくのでかなりご機嫌で一緒にビールとワインを飲みながら盛り上がる。もともと音響メーカーに勤めていてステレオ製品をヨーロッパで売り歩いていたそうだ。留学していたことを話すと、留学して英語を学ぶことが本当に必要なのだろうか、語学を学ぶことより、まずはするべきことがあってそれに語学が付随して必要になってくる。ただ語学だけ海外で勉強しているのはあまり賛同できない。自分達は海外で製品を売るという環境で英語もドイツ語も現場で覚えるしかなかったということだった。

自分もその通りだと思う。では何故、留学をして英語を覚えるのだろうか。それは初めはほんの海外旅行のつもりだけだった。レストランのメニュー表を読んだりコンサートのチケットを買えればいいだけだったのだが、いつの間にか英語でなければ意思の疎通ができない人達が回りに増えてしまったからなのだ。今回の2週間の滞在でいったい何人の人と出会い話をしただろう。詐欺師から学生や子供、仕事づくめのロンドンの中心地に住む夫婦、日本人やヨーロピアンの学生達、レストランの給仕。それらの人達は旅に出る度に、自分にもう一度考えさせられる何かを与えてくれ、いつも再出発できる新しい気持ちにしてくれる。物価や値段のことをこと細かく書いてみたが、終わってみればそんな金額などどうでもいいと思うくらい、旅から得られる見返りは大きい。そして人が成長するということは、こういったことなのだと思う。  

初めて行った海外は友人と一緒に行ったグアム旅行だった。飛行機を降りた時に感じた海外独特の匂いは今も変わらない。そんな友人達と行ったパック旅行がいつの間にかただの観光旅行とは少し違う海外滞在へと変わっていった。少しづつだが自分も変わっていったのだと思う。日本人の悩みなど、海外で生活する人達の問題に比べると、まったく桁違いに小さいものなのだ。初めの頃の自分の持っていた価値観と今の価値観では全くといっていいほど違う。今、世界を見渡すと物で溢れている国とそうでない国がある。旅に出て、そういう違った国々を回ると本当に必要なものは何か、大切なものは何かということに少しづつ気付いたような気がする。この、実際に世界で見たり聞いたりするということは、テレビやインターネットではなく、自分の目で時代そのものを直視するということでもあるのだ。

近年では日本人は海外に出ることが少なくなったと言われている。だがこの1,2年くらいで、昨年訪れた東南アジアのフィリピン、セブ島では日本人の語学留学生が増え、学校内では熱気が感じられた。海外では誰も助けてくれずトラブルにあることもあるが、それ以上に助けてくれる人もいる。今回の移動中も色々な場所で知り合った友人達から色々な情報を書いたメッセージを頂いた。欧米諸国と東南アジア、第3世界と呼ばれる発展途上国などを見てきた彼らは語学とともに国際感覚を養っている。東南アジアの発展する速度は早い。数年後、東南アジアが世界の中心になるような気にさえなってしまう。日本の景気後退が叫ばれて久しいが、今後を担う日本人達は国内では見かけることができない場所で次の時代へ向けての道筋を探しており、人生を本気で楽しんでいる。そこにこれからの日本人の可能性があるように思う。

宿泊したパリのアパート

ロンドン留学記とベルリンからパリへの移動の記録 12 【2015.3.12-2015.3.28】

【3月26日(木曜日)】

以前、パリを訪れた時に行ったレストランがあった。バスチーユ広場の近く、すこし路地を入った所にあるテラスを見れば店はすぐ思い出せた。カウンターに座り給仕の顔を見ると以前来た時と同じ男で、注文を取りにきた時に、数年前にここに来たことを話すと、あぁ、覚えてるよと言うので、本当に覚えているのかと聞き返すと、だってその同じ席に座って話したじゃないかと言った。その瞬間、まるでその時に戻ったような感覚になった。

 4年ほど前、スペインからフランスへ鉄道や飛行機を乗り継いで来たのだが、当時は今ほど鉄道や格安航空での移動もそれほど馴染みがなく会話とともに苦労していた。スペインのマドリッドからバルセロナ、そしてボルドーからパリまでの移動は想像すると欧州遊泳のようで良さそうな響きだが、乗りたい鉄道も飛行機も日程や時刻が合わず、行き当たりばったりでマドリッドのアトーチャ駅のチケットカウンターの前で諦め顔でしばらくスーツケースの上に座って考え込んでいた。結局、マドリッドからボルドーまで行くのに一度パリまで飛行機で飛んで、そのパリからボルドーへ飛び戻り、ボルドーからパリまでTGVの列車に乗って移動するという行ったり来たりの旅路になってしまった。空港ではスペイン語も英語もろくに話せず、LCCのチケットも買い方がよく分からず今考えれば、予定も立てずによく移動していたものだ。

 その旅が終わりに近づいた頃にこのレストランに入り、メニューに書いてあるフランス語を一つ一つ英語で説明してくれたのがこの彼だった。その時食べた料理が美味しく、珈琲を頼むと、今は昼だ、朝ではないとワインを飲まされ、見渡せば周りも皆酔っ払っていた。やっと目的地に着いて旅の最後に酒盛り場に到着したような感じだった。

 当時は何か新しいことがやりたくて、この旅に出掛けたり英語の勉強をやり始めた時期だった。生活も何かが物足りなくて退屈していたのだろう。しかしそんなことはない、退屈などしていなかったのだ。これほど満たされていた時期は他にはない。 その男とまた4年後に会おうと別れた。今後の人生で4年ごとに数えると、このレストラン、パリに来ることは何度あるのだろう。彼に会える機会は一生のうち僅か数回しかないのだ。

・Pizza alla marinara
・Crabe,gazpacho de puntarelle et ail des ours
・Pomme de terre,shintake et ceuf de truite
Coucou de Rennes,carottes,epinards et crème d’ail

バスチーユにあるレストランLA GAZZETTA

ランチはリーズナブルに食べることができる。

セットで19ユーロ。

この日のメニュー

-Assortiment D’entrees-

・Pizza alla marinara

・Crabe,gazpacho de puntarelle et ail des ours

・Pomme de terre,shintake et ceuf de truite

-Plats au choix-

・Rigatoni au ragout de volaille

・Ceuf poche et choux

・Poulpe,fenouil,orange et olives

・Coucou de Rennes,carottes,epinards et crème d’ail

-Formaggi-7€-

・Montasio,Monte Veronese,Ubriacato al Barbera

-Dolci-5€-

・Gateau a l’orange,Tarte aux pommes Canada,Soupe de poires et au lait

-Vins au verre-

・Blanc:Chablis 6€,Rouge:Causse toujours,Rouge de l’Herault 6.7€,Rouge:M.P.N rouge leger de la Drome 5€

-前菜の盛り合わせ-

・ピッツァ マリナーラ(トマト、アンチョビ、オレガノ、ニンニク)

・蟹とガスパッチョ、プンタレッレと熊のニンニク和え

・新竹とイクラとじゃがいものソース

-下記から一皿-

・鶏肉のスープパスタ

・キャベツとゆで卵

・ククーデレンネの鶏肉とほうれん草、人参、ニンニクのクリーム添え

昼間はRepublique駅界隈を歩く。雑貨屋、セレクトショップ、古着屋、レストラン等が賑わっており、一軒一軒見て回り、姪の土産にTシャツを買う。たまたまシャルリエブドの集会が行われていた公園があり集会が行われた後が残ったままだった。夜はオルセー美術館に行く。