「Travel/海外旅行」カテゴリーアーカイブ

ロンドン留学記とベルリンからパリへの移動の記録 3 【2015.3.12-2015.3.28】

【3月14日(土曜)】

この日ホテルからWest Brompton駅近くのホームステイ先へ移動することになっており、朝食は前日と同じものをホテルでとり、13時にホームステイ先にチェックイン。ホスト夫婦と面会し部屋に案内してもらう。土産に”水戸の梅”を持参した。食べられるのかどうか不安だったが美味しい言いながら全部食べていた。10歳の女の子と3歳の男の子もいて家族は4人。

ホームステイ先の自分の寝室。上下どちらのベッドを使用しても良いと言われる。
リビング 夜はサッカーのチェルシー戦を見ながらビールを注がれる。

自分の荷物を整理し、近所を散策する。この辺りは5分も歩くとチェルシー、ケンジントンという高級住宅街にあたる。ここはロンドン市内では格段に富裕層の集まる場所にあたり芸能人や官僚などが多く住む最も高級な地域。亡きダイアナ妃の旧住居もこのあたりにある。10日間の滞在だったので、観光も含め交通の便もよいこの辺りのホームステイを希望してみた。こういった世界の中でも高級な場所に滞在してその空気を味わってみることも良い経験になる。日本には階級制度など今ではもう無いに等しいが、ロンドンでは階級制度はまだ健在といえる。有名なキングスロードまで歩き遅い昼食。昔は若者がたむろしていた通りだったが今では高級ブティックが並んだ通りになっている。この辺りのレストランの見た目は普通のレストランだが高級店並の価格だ。

ホームステイ先の近隣 チェルシー

チェーン店のPret a Manger。どこでもよく見かける店で手作りサンドイッチのチェーン店でオーガニックを謳っている。インターネットwifiが使えるので滞在中この店は時々使っていた。サンドイッチとコーヒーで£5.25。味は美味しい。

Pret a Mangerのサンドイッチ。
キングスロード。無印良品の店舗もこの通りにあり値段は日本の倍。

夕食はホームステイ先での初の食事。毎晩7時頃に用意される。この日はチキンナゲットとポテトフライ。それにグリーンピースと野菜の付け合せ。パン。ペプシ。美味しいとか不味いとかではなく、これは冷凍のチキンナゲットとポテトフライなのでお腹にたまるだけの食事であった。イギリス人は食にあまり気を使わないということがよく分かったが、明日からの食事が少し不安に思われた。

ホームステイ先の夕食。ビールは毎晩注がれる。

【3月15日(日曜)】

朝食はセルフでキッチンにあるものを何でも食べていいと言われ、何があるかと見ると、食パンとコーンフレークと牛乳という質素なもの。家族がみんなコーンフレーク等をささっと食べてすぐ出かけるような毎朝だった。

日中はカンデムタウンという街で日曜日なのでマーケットが開かれておりそこへ向かう。色々な店が出ていて屋台もたくさんあった。中華の屋台で酢豚を買ったが失敗。不味い。ロンドンならではの適当な味付けの£6。少し気を抜くとこういう外れを引くのが海外なので、こういった失敗を繰り返すことにより良い店を見つける判断力がつくと思い前向きに考える。

東ロンドン(East London)のホワイトチャペルにあるブリックレーンが今ロンドンでかなり盛り上がっている場所で、雑貨屋、レストラン、ビンテージショップなどが多数あり、こちらも日曜日なのでマーケットが開催されていた。この辺りはベトナミーズレストランが多くベトナミーズ通りのようなものができており、イスラム教徒も多く、デザイナー、文化人など多種多様な人種が集まり混沌としている。とにかくかなりの人であった。夕飯はホームステイ先にてバジルのパスタとハム。それにビールとワインを注いでくれた。ロンドンの家庭料理はこれだけでいいのだろうかと思ってしまうほど野菜が一つもなかった。量が多くお腹に貯まれば良いような食事である。

ブリックレーンのサンデーマーケット
ホワイトチャペルギャラリー
イーストロンドンからソーホーへ歩いてみたが非常に距離があり後悔した。
ホームステイ先の夕食
出発前にたまたま発売された雑誌、ロンドン特集のBRUTUS。これを読みながら歩いた。

ロンドン留学記とベルリンからパリへの移動の記録 2 【2015.3.12-2015.3.28】

【3月12日】

初日はホームステイ先のチェックインが3.14(土)からなのでロンドン到着後始めの2日間はホテル滞在にした。

飛行機はANAだったので機内食は和食が選べて美味しかった。機内食で美味しいのはANAと台湾のChina Airline、エールフランス、ルフトハンザくらいだと思う。自分が食べた航空会社でそれ以外で美味しいと思えた機内食はあまりない。現地のヒースロー空港に到着したのが、午後3時だったのでパディントン駅の近くにあるホテルに着いたらすぐ二度目の夕食をすませ近くを散策し就寝。時差は9時間戻る。夕食は機内ですでに食べ終わっていたので、簡単に近くの小売店で買ったサンドイッチと水と非常食用にスナック菓子のオレオ。たったこれだけで£4.26=767円。(サンドイッチ=£1.99、水£1.19、オレオ£1.08)やはり物価の高さを感じる。ホテルの周辺はすでに桜が咲いており夜桜が綺麗であった。

パディントン駅、ホテル周辺
ANAの機内食

【3月13日】

この日の朝は、宿泊費がキャンペーンプライスだったこともあり朝食は含まれていなかったのだが、お願いしたところ無料でつけてくれることになった。メニューは食パンとゆで卵とフルーツとヨーグルト。それに牛乳と珈琲等。ホテルはagodaホテルのサイトで検索しキャンペーンプライスでUS$62/1泊。エレベーターなしだが眺めの良い小さな部屋である。

1年半ぶりのロンドン散策。パディントン駅からハイドパーク、バッキンガム宮殿まで歩き、衛兵交代式を見る。

ハイドパークでブラジルから観光で来たという男性に写真を頼まれ撮ってあげた後、紙幣のデザインの話しをされブラジルの紙幣を見せられた。日本に興味があり日本の紙幣はどのようなデザインか見たいとのことだったが、小額のポンド紙幣しか持っていないことを伝えると残念がられた。その後、日本の観光地やサッカー選手の話しをされ、どうしても日本の紙幣が見たいとせがまれたが断った。一度、財布の中味にあるポンド紙幣を見せたが、日本円ではないので帰っていった。何か怪しいと思い後で調べると有名な詐欺師であった。ここで日本紙幣を見せると、その中から何枚かマジックのように何枚か引き抜いてしまう。留学生の日本人もやられた人もいるそうだ。以前別の場所で似たような詐欺に引っかかったことがあるが、サッカー選手の名前が出てきた時に怪しいと思ったがまさにそれであった。実際に日本円は持ってはいたのだが、自分のそれは非常に取り出しにくいところに入れてある。財布やiPhoneも自分でも取り出しにくいほどでスリには警戒している。

Soho
チャイナタウン
C&R CAFE

その後、トラファルガー広場を通り、中心のピカデリーサーカス駅へ。この駅の近くに中華街があり、友人から安くて美味い店を何件か教えてもらっていたため、昼食はマレーシア料理のレストラン、C&R CAFE。人気メニューは海南チキンライス。飯が汁を吸っていてばくばく食べられて美味しい。学生食堂のような雰囲気。ジャスミンティーがついて£8.5。ロンドンにしては比較的安い。東京と同じか少し高い金額。駅の近くに日本の食材を扱っているスーパーを見つけ中を見ると調味料は色々と置いてあり味噌の種類も豊富。途中、喫茶店に寄り珈琲、£1.8。

大英博物館、コヴェントガーデンを回り、夕食は現地に数店舗あるスーパーのM&Sでサンドイッチを買いホテルで食べる。遅い時間に行ったので値引きされていて£1.35。通常は£2なのでロンドンのサンドイッチは大体400円と考えればいいだろう。

ピカデリーサーカス駅 
大型電光掲示板に映る日本企業で最後まで残ったTDK。この10日後の3月24日を最後にTDKも掲示板から撤退することとなった。
Sohoにある日本の料理食材専門店。中国、韓国の食材も取り揃えている。

ロンドン留学記とベルリンからパリへの移動の記録 1 【2015.3.12-2015.3.28】

【以前、と言ってももう今から5年前に書いたテキストになるが、ロンドンに語学留学をしたことがあり、短期の語学留学ではあったが非常に忘れられない記憶なので、またここにあげてみようと思う。ロンドンからドイツ・ベルリン、フランス・パリへと移動しており、これはヨーロッパ周遊としても快適でもう一度行ってみたい旅程の一つ。長い記録なので数回に分けてあげていこうと思う。】

何故ロンドンにしたのかという理由は、まずこの旅程は飛行機のマイレージが貯まっていた為、ヨーロッパ内の空港ならば他国へのアクセスが簡単ということもあり、どの国でも良いというあいまいな理由から始まっている。

 空席が出たのが、往路はイギリス・ロンドンで復路がフランス・パリからの帰国というチケットだった。因みに初め行きたい国はスペインだった。スペインはとにかく食が安価で美味しい。ロングステイをしながら食生活を見てくるということを体験してみたかった、これが最初の目的である。だが、1月に体調を崩したことがあるため、医療機関、治安ともに問題のないロンドンで滞在をすることにした。

 ロンドンといえば、1年半前に訪れたことがあり、とにかく物価が高く貧乏旅行で行ったつもりでも、食生活も買い物でも全てが高級な生活になってしまったという思い出がある。イギリスは戦争に負けたことのない国である。グリニッジ標準時や母国語の英語を持つ世界の覇権国家であり、世界の首都でもある。そしてポンド通貨の価値は世界の中でも高く、過去に$1=360円という時代があったが、調べるとその時に£1=1,000円だったそうだ。そんな物価の高い都市に滞在するということはどのようなことなのか、果たして通常の生活をすることは可能なのか、現地の人々の生活を観察しながら試してみたく思い、それを実行することにした。

 物価が高いと何度も書いてしまったが、ロンドンにはそれでも見るべきところが色々とある。ロンドンにはオーガニックブームがあり今ではそれが定着した感があり、街中のオーガニックレストランは賑わっている。和食のレストランも人気で讃岐うどん店やラーメン屋などはよく見かける。イギリスは飯が不味いという話は過去のもので、確かに他国に比べると不味いものも多々あるが、事前に調べれば美味しい店もフレンチからタイ、ベトナム、中華料理等、多数見つけることができる。

 今回は安い費用で、しかし健康的で美味しいものが食べられる生活を目的にしているので、まずは滞在先をどのようにするか考えた。ロンドンのホテルは高い。£1=180円ということは、東京の約2倍の物価である。何をするにしても2倍の金額がかかる。それにVATという消費税が20%。地下鉄の初乗りは£4.5で£1=180円の時期だと日本円で約810円である。オイスターカードという日本でいうスイカカードがあり、これを利用すると若干安くなり、初乗り£2.1で約380円。ロンドンはゾーンが1から6に分かれていて、ゾーンの移動が遠くなればこの金額も上がる。ロンドン滞在日数は10日間。これを全てホテル滞在にすると、滞在費と食費でかなりの金額になることが考えられた。ホテルは安くても街の中心のゾーン1,2で滞在するなら小さな部屋でもかなりの値段になる。食費も外食すれば定食程度でも一回で2,000円はする。

これをどうすればいいか考え、語学留学をホームステイでという手段を思いついた。一週間の留学をして、ホームステイにすれば食事も提供されキッチンもある。語学も勉強できるのであれば一石二鳥だ。ちなみにロンドンは英語が母国語ということもあり、意外と安い学校があるという話は聞いていた。何件か学校を問い合わせをした結果、ロンドン留学センターという現地の代理店の紹介で、Frances King校が午後のレッスンとホームステイ(1,2ゾーン)で1週間で総額£423ということでそこに入学することにした。食事がついて、英語の授業が受けられ、ホームステイなので24時間英語漬けになれることを考えれば高くはないだろう。そしてロンドンの家庭での食生活を垣間見ることができるのである。気分は高まった。

Frances King

https://www.francesking.com/

ロンドン留学センター

https://www.london-ryugaku.com/

「ベルサイユのばら」を読み終えてビストロで鴨のコンフィを食べる

たまたまベルサイユのばらの文庫本を借りることができた。ベルサイユのばらは子供の頃にテレビでも見ていたし実家に置いてあった漫画も読んでいたので、内容はよく知っていたのだが今読み返してみても非常に面白い。読み終えた今、頭の中はすっかりフランス革命になってしまった。

マリーアントワネットの普段の生活は昼近くに起きてゆっくり身支度をし、さてこれから何をして遊ぼうか考える。お気に入りの女官たちを集めて、ベルサイユの一角にプチ・トリアノンという農家を見立てた家を建て女官たちと遊ぶ。夕方からは芝居を観に行き9時半頃から夕食をとり、賭博や舞踏会に繰り出す。

ルイ16世は狩猟に行くか錠前を作ることしかやることはなく、バスチーユ監獄が暴徒に襲われた時には日記に何も書いていない。この王様は狩猟のことしか日記には書かないそうだ。

この二人はたまたまその地位についてしまったが為に、このような運命を辿ったのであろうが、それが今からたった200年前。それほど昔ではない当時にやっと人権というものを人々は認識して革命を起こして今に至るということを考えると、このわずか200年前は人の知識というものは多くの人々に広めるにはかなりの時間を費やしたのだ。

漫画の中にはロベスピエールやベルナールシャトレ、オルレアン公と若い法律家、新聞記者などがパレ・ロワイヤルに集まりサロンを開き政治経済、文学、演劇、音楽について語りあっている。オスカルもそこへ参加することになり、ジャン・ジャック・ルソーを読むように勧められ、「世界が貴族のためだけにあるんじゃないってことがよくわかるよ」と告げられる。そして自宅でルソーの本を読んでいると、父親から「謀反人か平民の読む本だ!」と怒鳴られてしまう。

ベルサイユのばらで一番好きな登場人物は誰かと聞かれれば、子供の頃からロベスピエールであったがやはり革命家という響きに魅了されたし、おそらく自分は知らず知らずにうちに左の思考が染みついていたのかもしれない。そういえば昔、会社の上司から「お前は自分では分からないかもしれないけど、お前の考えていることは左なんだ!」と怒鳴られたれたことがあり、仕事帰りに書店で右と左についての本を探していたことがある。しかし自分は特に悪いことは何もしていないのだが。(笑)

今になってベルサイユのばら読み終えると、誰が一番好きかということはなかなか決められず、一人一人が重要な位置にいて誰一人が欠けてもこの革命は起きなかったのだと思うと、非常に難しいパズルのようだ。悪く描かれている貴族がいなければ革命は起きないし、マリーアントワネットがいなければ良かったのかと言えば、あの税金を使った贅沢三昧の生活がなければ国民も行動しなかった。

初めてフランスのパリに行った時、友人からコンシェルジュリーへは行ったほうがいいと勧められていた。コンシェルジェリーはマリーアントワネットが収容されていた最期の牢獄であり、実際のそれを見てみて動揺し悲しい気持ちになった。行ったことがある人は知っていると思うが、中には貴族の人形が牢獄に詰め込まれていたり、マリーアントワネットは机に向かい座っており、こちらに背中を向けており少しゾッとしる。僕はベルサイユ宮殿に行った次の日にここへ行ったのだが、その落差が激しすぎるので少し消沈した気分になりパリを歩いていたように思う。大体、観光名所になっているコンコルド広場やバスチーユなど今は普通の広場ではあるが、ベルサイユのばらを過去に読んでいる自分としては革命の血の流れた場所でそれほど穏やかな場所のイメージではなかった。しかし、もしパリに行くのであればベルサイユのばらは読んでから行ったほうが格段にいい。

漫画には首飾り事件を起こしたジャンヌ、宮廷のデュバリー伯夫人、ポリニャック夫人などが資産を狙う金の亡者になっており日々贅沢と浪費によって敵を作り、アントワネットも好き嫌いがあるようで何人もの敵を作ってしまう。

しかし、調べてみるとこのポリニャック夫人、彼女は革命が始まるや否や資産を全てもってオーストリアへ逃げて家族と共に暮らすことになる。しかし、偶然にも病死したのはマリーアントワネットが処刑された年と同じだったそうだ。対して革命家であったロベスピエールであったが彼も断頭台で処刑されることとなる。過ぎ行く時の中で様々なものが白く塗りつぶされていくのだ。

フランス革命のことを考えだすと止まらいのでこの辺で終わりにするが、この貴族と平民の身分制度が二極化を表しており、今現在とこれから先に、また二極化の現象があるとすれば(実際は今も起こっているのだろうが)このようなものなのだろう。二極化された人と人の差は何かと言うと「たまたまそうだった」というようなことでもあろうし、「その時とった行動はどういう行動だったのか」、ということもフランス革命から読み解ける。

革命は誰にも止められない。一部の人々のエゴや欲に振り回された民衆はいつか暴徒化する。これから先の時代に身分制度があるとすれば、貴族と平民の関係は、貴族をホワイトカラーだとすれば平民は一般人であり(全てではないがここにブルーカラーが入るのであろうか)それは言い換えれば奴隷でもある。しかし、機械化が進めばホワイトカラーも含め、奴隷のような仕事は機械が請け負うようになり、全ての民衆が貴族のような生活をすることになる。

貴族であれば格上の生活ができ安泰かというとそんなことはなく、ベルサイユ宮殿内での煩わしい人間関係や欲望に人々はまたもや悩まされるのだ。マリーアントワネットは普段の生活では何もしないで良かった。家事も育児もだ。

そんなアントワネットの言葉は「私は退屈が恐ろしいのです。」

この言葉は、すべき仕事がなくなった未来の人々にも起こりえることであろうし、ましてや今のパンデミック下で動くことのできない不自由で憂鬱な生活にも当て嵌まるような気がする。

読み終えたあと、偶然近くにいた友達と千葉の柏市に行くことになり、たまたま通りすがったフレンチビストロのMa Cuisine(マ・キュイジーヌ)という店で男二人が鴨肉のコンフィとまぐろのコンフィを食べる。鴨肉は身は柔らかく皮はパリっとしており美味い。

お酒は飲めない状況下だが、フランス料理の店内にいると頭の中ではまだまだフランス革命が続いてしまう。いや、もしかすると今のこの状況も革命の最中なのか?

新疆ウイグル自治区で行われた尋問手続きとその手順と所要時間

最近、ウイグルかウィルスなのか見間違えるくらいニュース欄でこの文字を見ることが多い。昨日も訪米した菅首相らも対中国に対しての協力姿勢を示していることをTVのニュースで放送しており、その裏の番組ではリーゼント刑事を放送していた。今後、海外へ行く人の中には世界を牛耳る国がアメリカよりも、日本のリーゼント刑事率いる徳島県警よりも、中国になっているかもしれない奇妙な世界の中で(もちろん僕はリーゼント刑事派だ)たまたま中国公安から尋問される機会も増えるのではないかと思い、そこで行われる尋問の状況について書いてみた。

今月は、ユニクロの柳井さんのウイグルについてのノーコメント問題が話題に上がっていたが、僕は柳井さんのノーコメントについては自分も少し近いところがあり、もちろん柳井さんはビジネスをかなりシビアに考えているので自分のとは全く違うし、実は余談だが僕は数年前に柳井さんの自宅へ二、三回行ったことがあったりする、当時の自分の上司が邸宅を建築しており、自分が行ったのはその建築中にだが、まるでそれは広大な敷地にある城のようだった。

僕は昔、世田谷に住んでいたことがあり部屋は1階だったのだが、二階に住んでいる学生が夜中友達を呼んで騒いでいたので何度か注意したのだが、学生はユニクロでバイトをしていて帰りも遅くなるので深夜になっても生活音がするのは仕方がないと主張してきた。そのことを当時の会社で話すと、上司が「今日、柳井さんと会うから話してきてやるよ、どこのユニクロのバイト?」と言うので、「いやいや、そんなユニクロの社長から直接バイトに話がいったら学生めちゃくちゃびっくりするでしょーよ(笑)」と僕は言い、上司は「直接の方がいいじゃねーか(笑)」と言っていた。結局この問題については自分で対処したが。

そしてこのウイグル問題、何故ノーコメントであまり話したくないのかと言えば、兎に角危険だからだ。僕は2018年の11月に新疆ウイグル自治区でプチ弾圧された。中国に行ってプチ整形してきたのではないです、プチ弾圧です、中国の公安に連行されて。その時にされた威嚇と取り調べが非常に自分に恐怖感を与え、少し前に香港の活動家である周庭さんが取り調べを受けた後「今回のは、、、怖かったです。。」と話していたのを見て、彼女の気持ちに共感を覚えるくらいプチっと脳裏に焼き付いている。なのであの時のことは口にチャックをして一切漏らさないようにしており、しかし誰かと酒を飲み交わしている時はついつい思いっきり喋っているのだがそれは内緒だ。あとは髪を切ってくれるバーバーのお兄さんがこの弾圧の話が好きでよく聞いてきたりするので、髪を切る度話していて、周りにいる客にも聞こえている。しかしながら、これからここに書く詳細はオフレコにしてほしい。

2018年の11月はまだウイグル問題はメディアに公開される直前(ウイグル特集を組んだNewsWeek誌発売の2週間前くらい)で、だが現地では強制収容所へ連行されているウイグル人が多くその真只中であり、しかし実は僕はこのことについて当時ほとんど知らず猛火の中へ飛び込むようなものだった。それよりも旅好きの友人が数年前に目的地であるウルムチに行ったことを僕に話してくれたのだが、そこには80年代の中央アジアの風景や人々との交流を彷彿とさせるような内容で、全盛期の地球の歩き方の時代を感じとることができた。しかも現地のウイグル人達と焼肉の出店が立ち並び、俺の写真を撮ってくれとせがまれ写真を撮りまくったそうなのだ。そして自分の母親もウルムチから西安、シルクロードに行ったことがあり、その素晴らしさを聞かされていた。

そんな回想を巡らせながら男友人と二人で現地へ向かい、搭乗した飛行機を降りてウルムチの空港を出ると大きな装甲車が出口で僕等を出迎えてくれた。

カメラを向けて装甲車を撮影すると中から4、5人くらいの軍人が一斉にこちらを見た。これは撮ってはダメなのか隣に立っていた何かの係らしき人に聞くと「いいからいいから」というようなことを言うので大丈夫かと思ったが、装甲車の中からはとにかくこちらを凝視しており、妙な気がしたのでやめて街へ向かうバスに乗り込む。

ちなみにウルムチへ行くには北京経由で、成田空港を22時頃に出発し、北京空港にて一泊夜を明かして早朝の便に乗り、朝の10時くらいに到着した。ホテルを探し「胜利路」(Shengli Road)という現地のウイグル民族が多く住んでいる地点を目指す。街中は長閑で中国の地方都市のようでそこにはビル街があり、大陸のど真ん中に発展した都市があることが不思議で街中を散策した。歩いていると公安から立ち入り禁止を告げられたり、中国の赤い国旗は妙にワザとらしく街頭に数多く掲げられていた。街中は漢字とアラビック文字と英語の交じった文字で書かれた看板があちこちにあり、大陸のど真ん中にある文化と人種の最大交流地点なのだということを意識させてくれる。そして事はウルムチで有名なバザール「二道橋市場」という大きなショッピングモールである複合施設であり見た目はモスクのようだが、そこへ向かう途中に起こった。

歩いていると寺院のような建物があり、なぜか壁の上部には有刺鉄線が施されていた。何も考えずに、あぁモスクか、と写真を一枚撮影するとスチャダラパーのボーズ似の公安の一人がこちらへ向かってきた。ちょっとこっちへ来るように誘導され、危険な雰囲気は全くなく旅行者へ対する何らかの確認でもするのかと思ったのだが、ここへ入れと言われるとそこに街の交番のようなものがあり、建物は何というかカップケーキの大と小を二段に重ねたような円錐のベージュ色の2階建ての建物で窓には鉄格子が嵌めてあり、外からは見えないようになっている。こんな愛らしく奇妙な建物の中へ興味深く入ると役人用のデスクと折り畳みの椅子くらいしか物はなくて、がらんとしていた。そこで2,3人の公安に監視されながらしばらく待っていると、2階から上官らしき人物が西日に照らされながら階段を下りてきた。その光景は何というか再現された一昔前の戦時中の映画のような雰囲気だった。この公安から中国語で色々と話させるが英語が全く通じない。そこで一緒に来た友人がgoogle音声翻訳を使い自動翻訳を始めた。これがなかなか優秀で多少コミュニケーションがとれたが、いかんせんこの地区は電波が悪い。レンタルwifiも非常に遅くインターネットやSNSも規制されている。自分もその自動音声翻訳を使い始めるが言語設定が英語から中国語への翻訳となっており、あまつさえ電波が悪く変更がスムーズに変えられない中、友人の日本語と相手の中国語と自分の英語とで混乱状況になってしまった。そうこうすると、公安が話す内容が翻訳機に表示された。「ここでしばらく待ってください、座ってください」。またしばらくすると、外から今度は軍隊が7,8人中へ入ってきて、みな長銃を構えたデザート迷彩を来た軍の連中で、僕等が携帯電話を触っていると、携帯を触るなと注意してきて、その長銃を全員で床にドドドド!!!と突いて威嚇してきた。その時は、自分はそういう威嚇に対しては割と落ち着いていて、ちょっと面倒事かな、というか面倒くさいと思い早く処理が終わるのを待っていた。現地時刻で夕刻の4時だ。

そうすると、「よしOK」のようなことを公安が言うので、あぁこれで終わりか、解放されるのかと思ったら、パトカーのような車が来て、これに乗れと言われ連行されることになった。この時、どこへ連れていかれるのか分からず恐怖を感じた。着いたところは大きなグレーの建物で入口の扉も非常に高い位置までありそれが頑丈に閉まっている。日本でいうところの警察署の本署のようなものだろうか。中へ入りベンチに座って待っていると、隣にも何人かの連行されたウイグル人も座っていた。自分達の番になり窓口に呼ばれ若い男性の公安との質問回答が始まり、またもやgoogle音声翻訳の出番となった。ここでも日本語と中国語と英語の入り混じった混乱のやり取りで(友人は日本語、自分は英語を話す人物だと思われてしまった、google音声翻訳に英語で話して中国語へ変換というのは相当大変なのは英語力が中級レベルの人なら分かるだろう)公安からの質問は、「取材許可証は持っていますか?」ということを何度も聞かれた。どうやら相手は自分達を記者だと思っているようだった。記者ではないと説明し旅行に来ていると伝えてもなかなか話が伝わらず、パスポートとカメラの中身を全てチェックすることになりカメラをもっていかれた。その後に続く質問は、「職業は何ですか?日本のなんという企業で働いているのですか?社員証はありあすか?」、パスポートを見て「あなたはイスラム国に数か国へ行っていますが、目的はなんですか?」等と続き、滞在日数、今後の予定などを聞かれ、翌日のシルクロード行きのバスのチケットがあったのでそれを見せて、職業の説明については、料理人風に包丁で物を切るゼスチャーをすると、公安は「あー、シェフかーOKOK」と笑い何故か受けた。そして疑うことなく納得し(なぜこれで納得なのかよく分からないが)、戻ってきたカメラの中を見てまた笑っている面もあった。そして、またしばらく待って下さいと言われ、ウイグル人達とベンチで待機することになる。もはやこの雰囲気は虐めである。その時、トイレに行きたくて、トイレに行かせてもらい、よく考えたら昨晩は北京の空港で一夜明かしており、そのまま行動をしているので、ゆっくりしていた時間はなかったのだ。

その間、友人は目の前で尋問を受けており、一生懸命話を続けている。その待機している間、様々なことが頭の中を過ぎり、今夜はここで一晩明かすことになるのだろうか、いやそもそも一晩で済むのか?伊藤忠の香港で逮捕された社員は数年間日本へ帰られていない、この尋問の時間が延びると帰りのフライトに間に合わないが、帰りのフライトの時間は公安に伝えたので、2日後のフライトであれば早く帰国してもらいたいと思っているはずだがどうか、ここで提供される飯の味は食べられるものなのか?布団はあるのか?絶対寒いはずだ、そして確実にアンコンフォタブルだろ、ここは(笑)等と考えていた。

友人の話が通じたのか再度自分も呼ばれ、出て行っていいと言われ解放されることとなった。最後の頃は公安もいいお兄ちゃんのような雰囲気になっていた。外に出ると空が青く高くやっと出られたと出所の喜びを全身で感じた(笑)トータル時間3時間半くらいだったと思う。とにかく腹が減っていたので中央アジア料理の店を探しにバザール「二道橋市場」へ向かう。そこは入口に検問所があり、入る人々は顔認証システムで身元を確認してから中へ入れるような物騒な雰囲気であった。自分達は外国人なので別室での検問になる。滞在中はこういった身元確認が何度も続き、旅好きの友人の話していた異国情緒あふれる自由な中央アジアの風情はもはやそこにはなく、非常に不自由で監視されている中央アジアだった。

過去の海外での出来事の中でも一番危険を感じたのがこの中国での尋問の件であったと思う。騙されたり、病気になったりしたことはあったが、このような恐怖感は他にはない。中国へ行くのはしばらく止めておこうとさえなった。

このウルムチ滞在の後、数ヵ月してからスウェーデンのストックホルムへ行った。その帰りの便はストックホルムからフランクフルトを経由して日本へ帰国するものだったのだが、天候が荒れており飛行機が飛ばなくなった。スタッフに相談しに行くと、フランクフルトに一泊するしかないと言われたが、他の便を探してもらい、ダイレクトフライトが見つかり、しかしそれは中国国際航空だった。北京経由の羽田行き。北京での乗り継ぎもしたくない気分であったがここは止むを得ない。便を変更するため特別の経路で空港を移動する。

搭乗ゲートへ入る前に専用のカウンターで前に並んでいた外国人が何処へ行きますか?とスタッフから質問され、「ウルムチ」と答えていた。もし彼が悪運を持っているとすれば、現地でそれが尽き果てるのかどうか。

ウルムチに関しては以下の2本の動画を制作しているので興味のある方はこのリンクから。

最後に友人の書いているブログTOKYO.IS.THE.REASONにて良き時代であったウルムチの紀行文と写真が載せてあるのでリンクを貼っておきます。ほんの数年前なのに、こんなウルムチはいまや見ることはできません。

無人の羽田空港

友人のO君がこんな写真を送り付けてくるものだから(実際はSNSのO君の投稿写真に自分が高揚して、この写真ブログで使いたいから貰えないかな?とお伺いしたのだが)恐怖感を通りこして、「いよいよ来たかー」と、気持ちが盛り上がってしまい、不謹慎ながらこんな状況に興奮しており未来に対する期待感も膨らんでしまっています。

こういう時は自分を含めてどうしてもシリアスなことを話してしまいがちになる人が多くなるのは分かるが、そんな下向きな話ばかりをしてもしょうがなく、しかしこの状況を楽しんでいるなどと書くと不謹慎だと言われてしまうので、何も言えないまま過ごすしかない状況でひっそりするしかないのだろうか?

そしてこの無人の羽田空港の写真。何なのだ、これは(笑)O君も言ってたけど、まるで第三次大戦中のようで、本当にもう危ないから早く帰ったほうがいいぞと言いたくなる。空港で働く人やその他の仕事を失った人には申し訳ないけど、いずれはテクノロジーの進歩によって完全無人の空港が現れるとは思うが、いきなり出てくると焦りと未来を覗いているようで楽しんでしまう気持ちが同時に起こってしまうので、もはやO君のようにアルコールに頼るしかないのだろうけど(その空港で呑んでたようだ)、そういえば先日のニュースで香港の活動家の周庭さんが禁固刑10ヵ月と書いてあったのだが、それと同時にアンジャッシュ・渡部健の不倫ニュースもテレビで流れていて、どーでもいいなと思っていたら、奥さんが佐々木希だったということを知らなかったので、「えぇ奥さん佐々木希だったのか」と数年前のananの香港特集の表紙の佐々木希を思い出し、また香港へ行ける日のことを考えながら、この空港の写真を見ております。こんなに香港や香港特集の表紙のニュースが連日流れているのに香港で飲茶を食べれないなんて舌がおかしくなりそうです。

もう、年内はみかんとコタツを囲んで年を越すしかないのか、まぁコタツなど持ってないので年末年始の自粛期間をどう過ごせばよいのか。とにかく来年か再来年は香港のレストランをぐるっと一周回り、いやいや香港は危険だろうと言われるが、たとえそこへ中国本土が押し寄せてきてもレストランと料理人とその味は変わらないだろうし、むしろ、いずれは本土の味覚との混合感も出てきてもの物凄い料理が開発されるかもしれないと考えてたらやっぱり楽しくなってきた、不謹慎ながら。いや、楽しくなるなら不謹慎でいいんじゃないか?

DOKKINKIN TV PRODUCTIONS       動画配信に関する企画書

HongKong Oct 2018 雨傘運動直前の香港

写真を撮り歩く活動も楽しいのだが、映像にしてみたいと思ったのは過去の記録を見ると、映像制作用にカメラを新調したのが2017年の10月頃だった。購入したのはLumixのGH5で当時は(現在もだが)映像を撮るカメラとしてはこれの使い勝手が一番良かった。カメラに関しては何とか10年くらいは食いついてきたが、最初の頃に比べると少しはマシになってきたような程度だ。映像は最初、何をどういう風に撮っていいのかもわからず、それは今も思考錯誤して撮って編集している。2017年頃からYoutuberが色々と登場してGH5を使用している人は多かった。やはり自撮りしやすいし、4Kでも撮影できてフレーム数も多く撮れる。

自分の場合は、何故映像を撮るのかと聞かれるが、始めは旅の記録を何かに残せないのか、旅の素晴らしさを伝えたい等あった。旅ばかり行っていると何というか観光というものに飽きてくる。毎日観光するということは受け身であって、やはり人は自分から何かを生み出すという作業がなければ生きていけないのだ。そう気付いたこともあり、もともと音楽と映画に傾倒していた身としては、見る風景や通り過ぎる人の表情が映画のように見えるようになってくる。そこにイヤホンから入る音楽があれば尚更それは増長する。それが海外という環境であれば、かなり面白い映像になるのではないだろうかと思い始めた企画だ。

しかし、ネーミングが酷い。いつか必ず後悔すると思っていたが、(2018年4月にDOKKIKIN TV香港編の動画を始めている)実際そうなった。このネーミングだと人に真面目に話すときに非常に伝えづらい。何故こんなネーミングかという理由は、センスのあるネーミングにしてしまうと、あまりブラックユーモアのない映像になってしまうと思い、このネームが映像の中にあればそうそうカッコよくはならない、もともとブラックユーモアのある映像を作りたい自分としては活動する上で道を外すことのない黒いネーミングかと思った。そしてこのネーミングは20代の頃に様々なミュージシャンの前説をステージでやってきた時の名残であって(漫才コンビであった、’’おばけえんとつ’’でよく使っていたギャグ。相方は音楽ライターのフジジュンで、当時周りの人達は出版社のオリコンで働いていてよく一緒に遊んでいた。)それは一つの自分の中の活動としては、同時進行でDJ活動もしていたので、映像としてはそのブラックユーモアと音楽の混ざった感覚は今も同じなのかと今この時になって思った。

それと始めるきっかけを与えてくれたのがRichie Oillyという映像作家。

彼の映像を見て自分も作りたいと思った。今でも参考に見ているが、いつになったらこんな叙情的な映像を作れるのだろうか。こうなってくるとキャストが必要になってくる。なので日々キャストは探しているつもりだが。

音楽はテクノミュージックにした。自分の映像は何回も繰り返されるべきだと思ったからだ。最後は電源を切れば終了する、そんな映像、ミニマルというのは所謂永遠なわけで、止まらない。一生踊り続けていたい自分と一生移動し続けたいという気持ちの融合。何のために生きているのかいえば、僕等は快楽のために生きているのだ。

Youtubeの説明欄には社会科見学派カメラマンDOKKIKIN TVによる、世界を踊りながら撮影した記録と書いた。皮肉めいた笑いと熱狂的な音楽、それを世界の中で鳴らしたいという衝動。そして今はパンデミック最中。一番最近配信した映像はスウェーデンのストックホルム編。その後、2019年の10月ジョージアで撮影して以来、主だった撮影はできておらず、ジョージア編の制作も始まってはいない。これは24フレームで撮影してある。

パンデミック過日、いや果実なのだろうか。今のそれはまるで戦時中であり、コロナが収束しパンデミック後の世界を撮りたいと思っている。この冬到来の大空襲の後、来春には世界は焼け野原状態になっており、そんな状況下の真只中、自分は興奮している。僕は今まさにその映像が撮りたいのである。

もはやこうなると映像制作がもはや、かっこいいとか悪いとか、旅の映像とかいった話ではない。唯々、この移ろいゆく世界を、その現実を撮るのみだ。僕は平和を謳い戦争に反対する気など全くといっていいほどない。戦争などはいつの間にか勝手に起こるものだし、パンデミックも同様、政治家だろうが誰にもどうする術もない。僕達は生き残るために逃げ回るしかなく、運が良ければかすり傷一つもなく済む。僕は世の中をそういうふうに考えている。

以上が映像に関する企画書だ。これは計画書なので世界の状況や自分の精神状態によって変わっていくとは思うが、その時はもう一度この企画書を読むことにしよう。自分は戦場という状況にいることからブレないようにするために。

龍景軒
重慶大厦 Chungking Mansions

Stockholm Sweden@DOKKINKIN TV

DOKKINKIN TVのストックホルム、スウェーデン編が完成しYoutubeで公開されているので、ご覧ください。昨年の5月にストックホルムへ行った時のもので、少し時間が経ってしまいましたが、旅行記などは少し時間を空けたくらいのほうがいい時もあるので、良しとします。

この時の旅程は5日間という短い期間でストックホルムにのみ滞在。仕事を終えてそのまま夜便で羽田からウィーン経由でのフライト。乗り継ぎ時間は30分しかなく、大丈夫だとは聞いていましたが、乗り継ぎの行列と持ち込み荷物のチェックに時間がかかり焦ります。

現地到着後、有名なガムラスタンという旧市街を散策したりしながら、午後いったんホテルに戻りベッドでうとうとているところへ現地在住の友人から連絡があり、「こんな快晴の日に寝ているなんて勿体ない、ストックホルムの晴れの日なんて滅多にないんです!」と。夕食を食べることになり、Odenplan駅で待ち合わせくることに。到着したばかりで地理も地下鉄もよく分かってないながら、海外で普通に待ち合わせできてしまうのは、やはり慣れだろうか。以前、香港の重慶大厦(チョンキンマンション)前で友人達と現地待ち合わせをして非常に面白かったのだが、今後もやっていきたい企画です。

友人は結婚して現地に住んでいる。こんな眺めの良い街に一年中いられるのなんて羨ましいかぎり。しかし現実は大変なことが多いということだった。そんな環境で生活しているというだけで尊敬できる。

スウェーデン料理のレストランへ連れて行ってもらい、サーモンのマリネを食べ、行きたかったジャズクラブのGlenn Miller Cafe(グレンミラーカフェ)に連れていってもらう。ストックホルムは現金の使用がほとんどなく、クレジットカードや電子通貨での決済が普及している、邪魔な現金を持つこのない自分的には理想な街だ。調べると手にチップを埋め込み、それで電車に乗ったり決済したりする人もいるそうだが、残念ながら見かけることはできなかった。バンドにチップを支払うのだが、それは現金が電子マネーのみ、どちらも持っていなかったので、友人に立て替えてもらった。友達は演奏前に家に帰るこことなり、自分は北欧ジャズの演奏を聴いてほろ酔いでホテルに帰宅。

翌朝起きて街中を撮影しにいき、市庁舎からの眺めを撮る。こんな眺めをどうDOKKINKIN TVに盛り込むのか悩む。そしておそらく半年間手を付けられなかった。まず合わせる曲がない。いつも選曲に悩みのだが、いかんせん魔女の宅急便のモデルとなった街、ここにテクノミュージックは合うのか。他の曲も考えたが、弾丸5日間のストックホルムの旅はピッチを上げたほうがいい。なにはともあれその日は週末ということもあり、ストックホルムには有名なクラブが何件かある。結局3店舗を深夜にハシゴしてしまった、一人で。NYのブルックリンのクラブも一人で回ったこともあったが、最近怖いとか危険とか思わなくなったのは何故だろう。これも慣れなのか。

回ったクラブはTradgarden,Slakhuset,Kvarteret,一番人が多く集まっていて雰囲気が楽しかったのはTradgarden,ここはストックホルムにいるなら行くべきだろう。他のクラブも良かったが、テクノを楽しみたいならKvarteret,この日はKerri ChandlerがDJをやっていた。さすが欧州の週末はスケジュールを見ると大物ぞろいだ。クラブの行き来は徒歩、もしくは深夜の電車やバスがあり、今やgoogle mapのナビですべて把握できる。特に危険な雰囲気もなく適当に朝4時ころ近くホテルに戻った。朝というかこの国は白夜なので夜10時くらいまで明るいのだが。

次の日もジンバルとカメラを持ち歩きながら、街中を歩きまわる。歩きすぎて最終日は公園のベンチでゆっくり人を眺めていたのだが、海外で慌てて歩きまわるより、ホテルやカフェ、公園でくつろぐ時間や独りで考え事ができる時が至福だったりする。

帰りはドイツのフランクフルト経由からのANA便のはずだった。マイルが貯まってマイル使用でのANA便なのだが、フランクフルトで雷雨がひどく離陸させることができず、フランクフルトで一泊することになるとスタッフから普通に言われ、あれこれ他の便を探してもらい、こういうトラブル時が一番英語が口から出てくるのだが、air chinaの北京経由便なら乗れるとのことで、せっかくのANA便が飯の不味いボロボロの機体のair chinaになってしまうのかと思いながら変えてもらい、フランクフルト空港に向かうはずが、北京空港でラーメンを食べて帰ってくることになった。北京空港でよく使う中華料理の店にすぐ向かってワンタンメンを食べ、帰国した時間にそれほど差もなかった。これも慣れなのだろうか。

旅行の素晴らしさ

Belgium/Antwerpen
Georgia/Tbilisi
Sweden/Stockholm
Spain/Sansebastian

昨年、ウィルス騒動の直前まで自分はこう考えていた。
この話の続きは打ち止めになっている状況だけど、今はただ待つしかなく準備期間だと思っています。

2019年秋

「欧州と日本を往復しながら生活できないか」とふと思いついて、無理無理やってみた1年間、なんとかニ、三ヶ月おきにベルギー、スウェーデン、スペイン、ジョージア、都市でいうと、ブリュッセル、アントワープ、ストックホルム、バルセロナ、サンセバスチャン、トビリシを日本と往復することができた。実際はその前に中国のウルムチとニューヨーク、フィリピンとずっと行き来はしているのだが。
行き来することは今の時代だと航空システムの利用が簡単になっているのでかなり楽になったが、会社員だとタイムスケジュールの調整が難しい。そんな環境でやっているのは、きっと将来的にはこういった生活が一般的に浸透するからだと思い、自分自身で試しているからだ。
ただし、こんなに渡航していると、周りの何も知らない人からは、よっぽど旅行が好きなのか、頭がおかしいのか、何か怪しいことをやっているのかと思われるかもしれないが、そういう時は、「旅行するのが大好きなんです!」と言うしかない(笑)

今、僕がやっていることは新しいライフスタイルの実験であって、何度も海外往復をして色々な人と会っていくとどうなるのか、これ等を経験していくとどうなるのか?ということの実証実験だと考えている。
これは、海外移住や世界一周旅行とは全く違う観点で、日本に拠点をおいて、簡単に様々な場所と往復移動できないのかというやり方だ。なぜなら結局、日本で生まれて日本で育った民族、とくにそこで歳を重ねた人達は和食を必ず欲するから。そして、おそらく将来は航空券の価格も下がり仕事も機械化で減っていき、時間をもっと自由に使える時代になるだろうから、一箇所に海外移住をしなくても、国境の意味も緩和し日本から様々な場所へ行き来しやすくなるのではと考えた。

ノマド生活というよりも、もう少し軽いライトなノマド生活、特に気負いもなく普通の生活に溶け込んだ移動生活とでも言うのだろうか。とにかく周りに往復生活をする人が増えればこういったライフスタイルも普通の生活になり、当たり前になると思うし、それによって日本の窮屈な社会からは少しはストレスが軽減されていくのでは、自分ももっと海外に行きやすい社会に変わるのではと思い、旅行が大好きなんです!と旅行の素晴らしさをくどくど周りに伝えているのです。

Belgium/Brussels
Sweden/Stockholm
Spain/Barcelona
Georgia/Tbilisi
Spain/Barcelona
Belgium/Brussels

ブエノス・アイレス 2014

2014年の財政破綻中のアルゼンチンのブエノス・アイレス滞在中に書いた記録を読み返すと面白いことが書いてあった。


「おかしな国だけど、数年後の世界で他にこういった国が増えてもおかしくはない状況にいるし、この流れを抑えることは無理だろう。結局、最終的にはどんな状況でも自分の価値観で楽しんだ者の勝ちのように思う。」


このコロナウィルスの騒ぎの後に、新しい社会が来るのは明らかで、もう元の社会には戻らないだろう。スペイン風邪の時には第二波、第三波が来て相当の死者が出ていて、今はまだ第一波の状態。これから経済は破綻して世界恐慌にもなりかねない、そして何かに統制されることもありえる。高級品や嗜好品も売れなくなり、新しい思想も生まれる。だから、なるべく早く自分の価値観を変えておかないと、新しい社会が来るまでの数年間が辛い生活になり、生活を続けられないように思う。
2014年に自分が書いた、「最終的には自分の価値観で楽しんだ者の勝ち」と言ってるように、自分の新しい価値観を早めに考える必要があるのだと思う。
もう世界は180度変わってしまうのだろうから。

以下~2014年12月末から2015年1月にかけての記録

帰りの便の乗り継ぎがかなりあって、なかなか書くことができず遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
帰りはブエノスアイレス→サンチアゴ→リマ→パナマ→マイアミ→デンバー→成田、というトランジットで帰国。ただただ長いフライトだった。途中体調を崩し新年はリマの空港ホテルでゆっくりしてたものの、アットホームな宿で何故かメキシコのボーイスカウト達と三食ともに食事するという不思議なところだった。
さて、破綻騒ぎのブエノスアイレス。自分の財布の中身も破綻するのではないかというくらいの物価の高さだった。インフレの為ガイドブックに記載してある値段とは全く変わっている。とは言え、地球儀に棒をブスっと刺すとその先端はアルゼンチンに突き出るわけで、日本から一番遠い最果ての地ということもあり、ここまで来ると、やっとここまで逃げてこられたな、くらいな安堵感もあった。そんなアルゼンチンで今、とんでもないことになっているのは両替。レートには公式のものと非公式なものがある。非公式なものとは闇、闇両替。何だかよく分からないけど、念の為、レートが大体幾らくらいか過去のものを調べてみたのだが、この表のようになる。

2013年1月
US$1=4.93アルゼンチンペソ
闇両替=6.45ペソ
2014年1月US$1=5.5ペソ
闇両替=9.9ペソ

公式と非公式でかなりの開きがある。要するに国を通して両替するより、地下と取り引きした方が歩合が良いということになる。クレジットカードも使ってはいけないと現地の人からは聞いた。持っていくべきはUS$紙幣。特にUS$100はレートが高いそうだ。もう国民が自国通貨を信用しておらずドルを欲しがってるということになるのだろうか。
フロリダ通りという道がある。僕の場合はホテルからすぐだったのでちょっと歩いてみると、すぐカンビオ!カンビオ!と言う掛け声が鳴り響いていた。カンビオというのは両替という意味で、若い兄ちゃんからお姉さんまで何人も立っている。これは違法なのだけど警察も見て見ぬふりをしているようだ。試しに「幾ら?」と聞いてみるとレートはUS$1=12.7 とのこと。12.7ペソと言えば最新のガイドブックには5.5ペソと書いてあったので、これって倍以上か!?と思い正規の両替店に確認するとUS$1=8.44ということ。こちらも上がっていた。アルゼンチンペソの価値が日々下がっていってるってことで最後はどうなるのだろうか。
この闇取り引きをする場合、通りで話し合い、話がつけば地下室に移動して両替を済ませる。ただしニセ札も混じっていたりするそうだ。問題はUS$からアルゼンチンペソへの両替はどこでも簡単にできるけれど、その逆はできない。ペソからUS$はよっぽど整った書類がないと無理なのだそうだ。これは、もう国の信用が全くないということ、他国の金は使えるけど、自国通貨は自国でしか使えないなんておかしな話しです。
そんな潰れそうな国の中で、みんな楽しそうに歌ったり踊ったりしていて、最終的にはお金ではなく、みんなその時の生活を楽しんでる、というものを垣間見れることができました。それにみんなどうにかお金を稼ごうと、自分達で作った物を出店で売ってるのだけど、この商品の質が本当に良くできている。

おかしな国だけど、数年後の世界で他にこういう国が増えてもおかしくはない状況の中にいるし、この流れを抑えることはまず無理だろう。結局、最終的にはどんな状況でも自分の価値観で楽しんだ者の勝ちのように思う。