憂鬱の推移「ブダペスト、ハンガリー1」

ベオグラード4日目、3回目の朝を迎えた。今日は朝8時の長距離バスでハンガリーのブダペストへ向かう。7時半にバスターミナルに到着したいので、早起きして身支度を済ませレセプションでチェックアウトの手続き、スタッフにタクシーを呼んでもらった。タクシーを待つ間、早々と朝食を食べ終えたが、6時ということで今朝ピアニストはいない。

ホテルの前にタクシーが来る予定が、遠くのメイン通りからクラクションが聞こえた。ヘイ!と声を上げているのでそちらへ向かう。タクシーに乗ると、若い男の運転手はブダペストまでバスでいくらするんだ?自分の兄がブダペストで働いている、などと話しをしてくる。ベオグラードの朝は渋滞するとホテルのスタッフから聞いていたが、たしかに混んでいて、近いはずのターミナルまで30分かかった。バスターミナルへ到着し、まずは入場券を払う仕組みになっているのだが、チケット売り場に行くと「入場料を払え!」とセルビアの言葉で何度も言われた。払いたいが入場料を払う窓口は他の場所にあり、勝手が分からずなかなか入場できなかった。仕組みも言葉も理解できない。なんとかチケットを買えて中に入るが、どのバスに乗ればいいのか分からなくスタッフに尋ねると、同じバスに乗る若い青年が同じ行先だから一緒に行こうと連れて行ってくれた。売店で水を買いバスに乗るると結構な人数が乗っている。出発は8時でブダペストには14時に到着の予定だ。バス内にトイレがあり、車内も綺麗でリクライニングもあり、チケットは片道約7000円。

バスが動き出し、ベオグラードの街を離れていく。ドナウ川の橋を渡るが、またブダペストでもドナウ川に出会うのだろう。街を過ぎるとそこからノビサドという小さな町で停車し、また何人か乗り込む。そのあとは国境までしばらく田園の中を走っていく。車内ではブダペストのことを色々と調べていた。出発前にベオグラードまでは調べたがブダペストについてはほとんど調べていなかった。まぁ地小さな町なのでガイドブックのマップを見れば大体は予想できるのだが。

出発の10日前、母親が転倒して怪我をした。その為、緊急で入院となり、病院へ駆けつけ医者から説明をされた。血液検査から睡眠薬、ベンソジアゼピン中毒と診断され、意識が朦朧なり、ふらつき転倒したとのことだった。今、ベンゾジアゼピンを解毒させているので1週間は入院することになった。その手続きの為、出発していいものかどうか、という状況であった。しかし、ただの捻挫で快方に向かい姉も来てくれたので、後は病院で療養するのみとなった。それでやっと出発することができたのだが、意気揚々ではなく慌てて出てきたのは否めない。その為、旅の下調べと準備に手が回らなかくなってしまっていた。

バスは国境に到着した。全員バスから降ろされ、パスポートコントロールへ並ぶ。バスはスムーズに国境に入ったが、普通の乗用車はかなりの列で並んでいる。30分から45分くらいだろうか、やっと全員のチェックが終わる。待っている間はただ日向ぼっこをしているしかなかった。

そしてまたバスに乗り込み田園の中を向かい、13時頃に休憩所に降りる。さすがに長時間バスに座っていたので身体がきつい。飛行機の移動もできるのだが久しぶりの海外だったのでバス移動を選んでしまった。よく考えたらさすがに7時間の車移動はかなりの長さだ。中はフードコートやカフェがあり、コーヒーを買う。外のテーブルに座りゆっくりしていたがなんとも清々しい天気だ。昼食はブダペストで食べようと思っていたのだが、ここからまだ予定より時間はかかってしまった。

バスに乗り込みブダペストへ向かうと、窓からの眺めは田園から街へと変わっていく。国境を超えると建物もがらっと変わっていき、今までのベオグラードの錆びついたような重々しい建物が、西側の、ヨーロッパの建物に様変わりした。

到着予定から1時間遅れ、15時過ぎにブダペストのバスターミナルに到着した。

憂鬱の推移「セルビア ベオグラード6」

旅先を決める前、バルカン半島にユーゴスラビアという国があったということを思い出し、あった国がなくなってしまうということに何か幻想的な感覚を覚え、調べてみるとベオグラードがユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都であった。

昔、90年代に「アンダーグラウンド」という映画があり当時の自分は20歳くらいで、てっきりアンダーグラウンドカルチャーの映画かと思っていたら、それはユーゴスラビアの誕生から消滅までを描いた砲弾が激しく行き交う映画であって、やっとその舞台に来ることができた。これも物価高の中でどこか行ける国(この国は隣国がハンガリーだがEUには所属していない)はないかという非常に品のない決め方ではあったのだが、まぁそれも何か運命的なきっかけであって旧ユーゴスラビア共産党指導者のチトー大統領のメモリアルにまで訪問することもできた。

そして何よりも街中の建築が他のヨーロッパの国々とは違っていて、並んでいるビルは重圧的でただただ尖っているように見える。歩いている人々は賑やかで普通の都市にあるような風景に見えるが西欧とも米国とも距離を置くような身の纏い方、どこにも属さないような気負い方で冷たい視線を放っている。詳しくはないがビザンチン風の建物、旧ユーゴスラビア時代の建物があらゆるところに乱雑に新旧織り交ぜに建ち並んでいる。補修もろくにされず、当時の時代がそのまま保存されているような、それが退廃して取り残されてしまったかのようだ。

西側が正解なのか中央なのか東なのか、というような疑問は何も意味をなさないという回答に行き着く。ただ生まれて死んでいき、国という体制にも寿命というものがあり、どちらが先に息絶えるかというのは運命のようなものであり、今滞在しているホテル・モスクワは1906年創業で国の誕生と消滅よりも長く生存している。今はもう生存していない人々が何人もこのホテルに宿泊した。いずれは自分もその人々と同じような道を歩むのだ。人生は短い。疑問や恐れを克服するのはいつになるのだろうか。

夕暮れになり、行っていなかった博物館、ニコラ・テスラ博物を思い出しバスで向かってみた。到着すると何人もが並んでおり、30分おきに交代制で入場しているようだった。現地の人、学生などで賑わっており、どうやら人気の博物館のようだ。20分程度待ち、受付でチケットを買おうとすると現金しか受け付けておらず、不幸にも自分はもはやセルビア通貨を持ち合わせていなかった。クレジットカードが使えず諦めて帰ろうとすると、後ろに並んでた中年の女性が自分の分も一緒にチケットを購入してくれた。海外に来るとこんな瞬間が時々訪れる。お礼以上のことは何もできないが何度も感謝の気持ちを伝える。

中に入ると発明品や研究器具が展示されている。見学者はまずテスラ博士のドキュメンタリー映画を見ることになるのだが、その後、大きなコイル機材の周りに集まり、蛍光灯を配られ一人一本ずつ持つのだが、「Are you ready?」とガイドが言うと、ものすごい音で大きな機械が動きだした。するとコイルの上でバチバチバチバチ!ジジジジ!と電気が走り、それと同時に蛍光灯の明かりがついてみんな一斉に歓声を上げた。僕は地響きのような音だったので本当に驚いて一瞬後ずさりしてしまったが。その後も他の小さなコイルで手を当てると電気が手に飛んできたりと、興味深い展示物であった。テスラというとイーロン・マスクのテスラ社が有名だが、それもイーロン・マスクがニコラ・テスラを尊敬していることから名前を付けたようだ。今回はこんな体験をさせてくれた自分にチケットを買ってくれたセルビアの女性に感謝したい。

ベオグラード滞在最後の晩は、書籍セルビア紀行に記載してあったおすすめのレストランへ行く。外観は昼間見ていたので場所はすぐに分かった。行きたいレストランは2軒あったのだが、Klub Knjizevnikaはベオグラードの作家達が集う作家倶楽部として有名で、外装はガラス張りで白いテーブルクロスのテーブルが並んでいて、行きたかったのだが生憎席がガラガラに空いていたため期待できず諦めた。ということで向かいにあるLittle bayという老舗に入った。ここの内装は18世紀かその頃の劇場のようで、個室が重厚な幕で開け閉めできるようになっていて何とも甘美で、空想的、情緒的な内装に覆われている。鴨のコンフィを注文し赤ワインを飲んだ。

携帯を覗くと現実に引き戻されたり、街を歩けば海外の空気に取り込まれ、今いるレストランにいると100年も200年も前の昔に行ってしまったりと、時空が歪んでしまい、自分の肉体と精神があらゆるところへ浮遊してしまうような感覚に陥ってしまう。日常で普段感じているものとは全く違うものを感じながら、酔い覚ましに夜の人通りの多い大通り、店じまいを始めたショッピング通りを彷徨い、ホテルに向かうと、ライトアップされた100年前からあるホテル・モスクワは夜に浮かぶ小さな城のようであった。通りを歩く人は時々立ち止まりホテルを見上げている。ホテル・モスクワは過去と現在を行き来するようなベオグラードの街の象徴でもあるのだ。

明日はここベオグラードを発ち、長距離バスで隣国ハンガリーへ向かう。

ハンガリー 、ブダペスト編ヘ続く「世界と視界の胸のうち」

憂鬱の推移「セルビア ベオグラード5」

セルビア3日目。ホテル・モスクワで2日目の朝食をとる。またドレスを着た昨日と同じ女性のピアニストが演奏をしている。大きな窓からの採光も良く、毎日こんな宮殿のようなところで食事をしているとまるで貴族にでもなったかのようだ。隣の席はスーツ姿のカップルやビジネスで宿泊している人たちが目立つ。

こんな僕のような大して金のない旅行者でもこんなに贅沢ができるのならば、インフレ時に欧米などに行かずにここへ来れば空いていてゆっくりできる。オーバーツーリズムで人が右往左往している場所では、こんな時間は過ごせないだろう。そのうちオーバーツーリズム被害に曝されていないセルビアは観光地として注目されるかもしれない。まぁ自分はこういった観光マーケットが稼働していない国がリアルで好きなのだが。

今日は昨晩ダウンロードしたMoovitという交通機関を検索できるアプリを使って街を移動してみることにした。ベオグラードにはバスのフリーパスカードがあるそうなのでホテルの前にあったキオスクで聞いてみた。売っていたので買ってみると、小さな紙っぺら1枚の一日通し券を渡された。バスにもトラムにも乗れるそうで、すぐ隣がバス停だったのでバスに乗車してみると運転手はほとんどその紙をチェックなどはしていなかった。行先はユーゴスラビア博物館だったが途中で聖サヴァ教会というかなり大きな施設で降りた。コロナ前のガイドブックだと内部は建設中と書いてあったが工事は終わっており、この内部の作りはセルビアらしい豪華な装飾で彩られていた。観光客も多くおり、昨日の小さな修道院のような教会とはまったく違う。さっきまで外は雨がパラパラと降っていたのだが、空は晴れていたのでそのままバスに乗りユーゴスラビア博物館に向かう。

アプリのMoovitは乗り換えの指示も分かりやすくマップ上で教えてくれ非常に便利だ。しかし、ベオグラードのバスは遅れたり満員だったりと乗れないこともあり、時間がかかったがやっとユーゴスラビア歴史博物館に到着した。公園の奥に大きな建物があり、壁画のようなものが建物中央に描かれている。しかし、そこは改装中で「今は向こうだよ」と現地の人に言われて別館の旧博物館へ向かった。入るとエントランスにカフェがあり庭園を見渡せる。太陽が出てきて非常に良い天気になり、昨日も今日も日中はシャツ1枚で十分な陽気だ。

旧博物館に入ると、中は小さな展示室だった。しかし展示してあるものは内戦中の銃器、ポスター、衣類、生活用品などがあり、興味深い。チトー政権の頃の写真も色々展示してある。わずか100年くらいでなくなってしまった国ということが非常に幻想的で、散ってしまったということが儚い。1929年の建国、2003年までの期間である。なんというか人の一生の長さにもとれる。博物館を出て先に進むと「花の家」という建物がり、中にはチトーの霊廟がある。天井はガラス張の温室になっていて植物に太陽の日が降りこんでいる。その中にチトーお墓があるのだ。日本からやっとここま来ることができた。通路にはチトーの使用していた執務室の机や当時の写真も飾ってある。チトー大統領没後10年でユーゴスラビアは解体したのだから非常に強いカリスマ性と支持力を持っていたのだろう。今の世の中にはそんなカリスマ性を持った人物は政治ではなく、どこか他のところにいるのかもしれない、などと思いながら今現在、強固な国という形を維持していくこと自体が少しぼやけてきた。

結構歩いたので庭園を見渡せるカフェでフルーツジュースを買いテーブルで寛ぐ。日常の仕事から解放されて、まだ数日間もこの生活が続く。日常から解放されて本来の自分、一個人の自分はどこへ向かいたいのかがはっきりしてくるのではないだろうか。それを知るのが旅の目的でもある。自分の一つ一つを確認していく作業とでもいうのだろうか。しばらくここで太陽を浴びていたかったが、ユーゴスラビアの幻想やチトー政権の思想が今も残る博物館を後にした。

博物館からバスで市内へ戻る。バスは相変わらず満員で人がぎゅうぎゅうに乗っている。昼時だったので飲食店の多いスカダルリアの近くで降りて、どこかで昼食を食べようと退廃感にある通りをしばらく歩く。ステレオタイプな広告や落書きの建物に気持ちが酔いながら歩いていた。軽く食べようと現地のファーストフード店の肉のグリル料理を提供している店に入る。サラミのようなソーセージに玉ねぎが添えてあり、ソーセージは肉が詰まっていて美味い。

街の中央広場、ミハイロ公の像がある場所へ行きオープンテラスでコーヒーを注文する。街の中心で頼んだコーヒーは400円くらいだった。今日はもう歩くのも疲れたので街の中をただぶらぶらと散歩していた。時たま教会があったので中を覗いたり、唯一のデパートに行ってみたりした。コンパクトで住みやすそうな街である。オープンテラスがあちこちに並んでおり、することもなくなったのでビールを飲んで寛ぐことにした。LINEを確認すると姉から数件、母親の件で連絡が入っていた。内容を見て急に現実にもどってしまう。今、自分は日本にいないので姉が母親の入院の件で色々と手続きをしてくれているのだ。現実と今目の前に見えることの交差に戸惑う。

憂鬱の推移「セルビア ベオグラード 4」

朝食を食べにホテル・モスクワのラウンジへ向かう。窓からの採光は透き通り、大通りを眺めると通勤の人たちが足早に歩いている。宮殿の内装のようなラウンジはブッフェになっていてサラミやチーズ、パン、野菜を適当に皿に取り分け、テーブルに座って食べていた。妙に音がいいピアノだと思って流れている曲を聴いていたら、本当にピアニストがいてすぐ近くで弾いていた。こんな朝からピアニストを雇っているのか?と笑ってしまった。ベオグラードでは豪華絢爛がごく当たり前の日常という文化があちこちに散らばってる。

天気は秋晴れでシャツにジャケットを羽織り、まずは内戦時にNATOに空爆された建物がある空爆通りに向かう。朝、海外の街中をこの様に歩くのが本当に久しぶりで、昔の感覚が蘇ってくる。一歩一歩と歩くごとに過去のことが思い出されてくる。天気も秋晴れで気温も暑くも寒くもなく、昔ゴールデンウィークにスペインやイタリアの朝を歩いている感覚になる。あの頃はまだまだ行っていない国があって楽しかった。歳を重ねるとやはりその頃と違うのは当然で、それも含めて楽しむしかないのだが、年相応の悩みが発生してくるもので、今年はやや憂鬱になっていた。今回の母親の入院についてはいくら看病をしても人は歳をとっていくので、もとの少し若い頃に戻ることはないのだ、ということを実感できるまで少し時間がかかった。誰しも身体は衰えていく。だが、そんな憂いも秋晴れの清々しい朝にほんの少しだけ日が当たってくる。

街並みはやはり少し寂れており落書きが多い。トラムが走っているが、乗り方が分からず歩くことにした。角を曲がると現場のビルが見えてきて、すぐに分かった。破壊されて中が空洞になったビルが何棟か建っている。その脇を会社員が通行している。僕はそのビルをしばらく眺めていた。砲弾というものが当たると建物はこんなにも破壊されてしまうのだという威力を感じながら。まぁせっかくなので自分の写真でも撮ってもらおうと誰か通行人を探していたが、お願いできそうな人がなかなか見つからずウロウロしていると60歳くらいの男性が近寄ってきた。そうすると大きな声で「Hey! It’s NATO!」と言ってきたので、「Ah,Yeah…」と頷くとギロっとした表情で「Fucking NATO!」と怒鳴って歩き去って行った。相当怒っていたようだが、どうやらセルビア民族は到着時に乗ったバスの運転手も含め皆機嫌が悪いらしい。そして建物の梁が崩れ落ちそうなビルからなかなか離れられず、しばらく見ていると警備のミリタリー服の監視員が中から出てきたのですぐにそこから去ることにした。

空爆通りから回り道をしてベオグラードの中心にある大通りテラジェに向かう。通りの建物は20世紀初頭の建物がそのまま残っておりメンテナンスでもすれば綺麗になるのだろうが、まったくしていないような建物が多い。友人が話していた退廃感マックスというのがひしひしと伝わってくる。そんな歳をとった街の退廃感に同化しながらカメラを撮っていく。自分にとってはこんなにも世の中を憂うような美しい退廃は他にはないのだが。

歩いていると教会があったので入ってみることにした。久しぶりの海外なので現地の教会の空気を味わうくらいに思っていたのだが入口が分からず、教会横に小さな建物があり、門に人がいたので、了解をもらい中に入れてもらった。扉を開けて中に入ると教会の、特に古い教会の独特の香りが押し寄せてきて、何人もの女性達がベールの被り物をして牧師の注ぐ赤いワインとパン一切れをもらい、中を円になって歩いていた。それを囲むように信者の人たちは涙を浮かべているようにも見える。少し疲れた風貌で、綺麗な服装ではないような人もいる。まさか久しぶりの海外の教会でこんな真正のミサに遭遇してしまうとは思っておらず、たじろいでしまった。目の合う人は自分の方を怪訝そうな眼付で見る。こんなアジア人が真摯にミサを行っているところに覗きに入ったようなものだ。それでもその光景があまりにも叙情的で、ましてこの戦時中の最中であり、気持ちが高ぶってしまいそこから動くことができなかったが、あまり長居はせずに外に出た。出ると浮浪者のような人から寄付を迫られたが、あまり現金を持ち合わせておらず断ってしまった。隣に大きな教会があったが入口は閉まっていたのでテラジェに向かった。

テラジェの通りはショッピングストリートになっていて沢山の人が歩いている。そこからカレメグダン公園が観光スポットとして有名なので向かってみると公園の入り口に小学生の団体や観光客が沢山集まっている。長閑な公園で奥の方へ行くとそこに要塞跡地があった。その入り口の門の近くに内戦時の戦車や砲弾が何台も並んでいて、まさに初期の宮崎駿、ルパンのカリオストロの城のように映った。というかカリオストロの原形ってここなのかというくらい似ている。城、共産主義、戦車、時計台の塔まであった。しばらく散策しテラジェに戻る。ベオグラードの教育関係のミュージアムがあったので入ってみると小学校なで使われてきた古い人体模型や教科書、教室、制服などが展示されていて興味深い。

昼になったので昨夜行ったレストラン街のスカダルリヤへ行きDva Jelenaという老舗のレストランに入る。入ると内装は内戦時に会議か宴会にでも使っていたような雰囲気で何人かがテーブルを囲んでいる。薄暗い室内は時が止まっているかのようだ。食べたのはチーズを豚肉巻きにしてグリルしたデミグラスソースがかかったもの。肉は柔らかくてチーズが濃厚でどことなくバルカン半島の民族的な味がした。そこで一人のアジア人の男に「Hey」と声を掛けられ、「中国人か?」と聞いてきた。日本人だと答えると彼は上海から来て1ヵ月クロアチアからボスニア、セルビアとバルカン半島を周っているとのこと。英語の発音が妙に良く、セルビアで会った初めてのアジア人だった。中国人のパック旅行の団体も最近はそれほど多くはなく、こういう一人旅の中国人も増えてきたように思える。

店を出て一度ホテルに戻り休憩をして、リュビツァ妃の屋敷を訪れる。誰なのかはとくに知らないが、19世紀のバルカン様式の内装ということで、様々な部屋がある屋敷で客席は大きな絨毯が敷かれてアンティークの家具に囲まれ居心地が良い。飾ってある絵も家主の肖像画だろうか。ここに住んでいたのだという威厳のある眼差しでこちらを見ている。ホテルモスクワの内装もそうだがベオグラードがこれほど住居や建築を楽しめる街ということを知っている人は少ないのではないだろうか。そのまま国立博物館を覗き、半分新鮮で半分退屈な絵画や展示品を見る。

日が暮れてきたので夕食に女性がやっている家庭的なイタリアンの店に入る。ゆっくり寛げる小さなかわいい食堂で2階に通される。出されたペスカトーレと赤ワインは美味しく、クロアチアが近いからだろうか、海鮮と味付けは非常に美味であった。ついでに食後に勧められてティラミスまで食べてしまった。ベオグラードで食べた料理はワインを入れても日本円で2千円程度なので、このインフレと円安の時期には非常にありがたい。

ほろ酔いで店を出て、夜の街を散策してホテルへ戻る。大体の観光名所は見終わった。Google mapの交通機関がベオグラード市内の交通機関とリンクしておらずMoovitというアプリを使うそうなのだが、明日はこれを使ってトラムに乗って遠方まで出かけてみよう。夜のホテルの1Fレストランは席が客で埋め尽くされており、煙草や酒を楽しんでいる男友達の集まりから写真を撮ってくれと言われて撮影すると、レンズ越しに気持ち良さそうな上機嫌な顔が並んでいた。

憂鬱の推移 「セルビア ベオグラード3」

ドバイからベオグラードまでのフライトはエミレーツ傘下のLCCのようで、座席は狭い。なので座っているのがしんどいので通路に突っ立ていた。意外と他の人も立っている。そしてやっと機内で水が出たので水分補給ができた。ドバイ空港では水が800円もするのでバカバカしくて我慢していたのだ。小さいカップに入った水を2杯貰い一気に飲み干す。機内は中東区域の上空のせいか暑い。6時間の妙に暑くて座り心地の悪いフライトが終わりベオグラードの空港、ニコラ・テスラ空港に到着した。空港の名前はテスラ博士からとられている。旅先としてはマイナーな国だがテスラ博士の名前を聞くと忘れられた国に何か企みがあったような気がしてくる。

空港はやはり社会主義仕様で照明も暗くて歓迎ムードはない。掲示板にはWelcomeと書かれたポスターがあったが、全くそういった気配はなく沈んだ灰色の景色だった。パスポートチェックを終えて、とりあえず現金を下ろそうとしたが、空港内のATMだと金額指定が大きい額ばかりではあったが、無一文なのでやむを得ず大きな額で引き出した。セルビアのレートは日本円とほぼ同じくらいなので計算する必要はない。

ガイドブックには空港から市内へのバスが出ているとのことだったが、数年前のガイドブックなので、記載してあるバスは見当たらず。みんなが並んでいるバスの運転手に聞くと不機嫌な顔で「シティ、センター」と言われた。チケットを買おうとすると大きな紙幣しかなったので「細かい額は持ってないのか?」と聞かれ、ないと言うと、かなり不機嫌そうに釣りの紙幣を一枚一枚、バン!バン!と車内の棚に叩くように返してきた。この時、相当怒っているというのと、なぜか海外のこの排他感に嬉しくなってしまい、いよいよ3年半ぶりに海外に到着した気持ちに高ぶってきた。

気候は秋晴れ。今年の日本の残暑の残る10月よりは涼しく感じられた。荷物をバスの後ろに入れろと言われたが、すでに荷物がいっぱいで入らないと運転手に告げるとまた苛立った表情で車の後ろを開けて荷物の整理を始めた。この時の顔は激怒寸前のようだったので近寄らないで話しかけずにいた。セルビア人はみな背が高くて厳ついのだ。

やっとバスが出発し1時間程度揺られ、窓からの景色は古びた社会主義の建築が寂しそうに見える。バスステーションで全員降りてホテルに向かう。道沿いの建物は壁のタイルが剥がれ落ちれていたり看板は年期が入っていてどれも時代を感じるものばかりだ。目の前を赤いトラムが走っていく。電線と車体がパンタグラフという器具で繋がっていて、結構な速さで荒い運転をしていた。ホテルへの道のりは坂が多く、どうやらベオグラードは上り下りの坂の多い街のようだ。街角の建物は落書きが多く、店は骨董品のような雑貨や流行からは遠い婦人服のブティックなどが連なっていた。

予約してあるホテルはホテル・モスクワというホテルだ。創業が1906年。100年以上も戦禍に耐えながら続いている宿なんて聞いてしまったら、値段はともかくとして泊まらない訳がない。坂を上り終えると広場に出てそこに緑の屋根の小さな城のような建物がホテルだった。ここで写真を撮影している人も多く、街の中心的シンボルのようであった。このホテルは「セルビア紀行  日本人が知らない東欧の親日国 」という現地駐在員だった著者、丸山純一氏が非常に薦めていたので予約をしてみたが、エントランスに入るとそこは18世紀頃の宮殿のようだった。壁の装飾、絵画、ふかふかと柔らかすぎる赤いソファ、1Fにはレストランがありピアノを弾いている音が聞こえてくる。エントランスでチェックインをして、スタッフの女性は英語はまぁ通じるが途中からフニャフニャして発音がよく分からなくなってしまった。部屋へ行くとそこは遠方から宮殿に一人で泊まりに来たらこういう狭い部屋へ通されるのだろうなという、こじんまりした角部屋だった。ベッド、壁紙、デスク、シャワールーム、全てが時代を感じるものばかりだ。使い勝手は良くはなく、時代物を楽しむという気持ちで解決させるしかない。セルビアのトイレや椅子は兎に角座高が高くて使いづらい。セルビア人の身長のせいだろうが、背中と腰を痛めていた自分にはきついものがあった。

時刻は夕方になりそうだったので、すぐに街へ繰り出す。夕食のレストランを探しにクネズミハイロ通りという街の中心を走る遊歩道を歩く。社会主義のユーゴスラビア時代の建物とビザンチン建築が交互に目の前に現れる。歩いている人の愛想はなく、ここはよそ者は入れないよ、というような雰囲気を醸し出している。アジア人はおらず、西欧の観光客も見かけなかった。セルビアの男性は背が高く、K1選手のミルコみたいな風貌の人や、髭をたくわえた人が多く、女性はアイシャドーが濃く、魔女のような女性を見かけた。並んでいる店も日本や西側諸国では見かけないブランドが多い。ここは異世界だ。

到着したばかりだが、意気揚々とレストランを探し歩く。スカダルリヤという地区に到着するとそこは石畳の歩道にレストランが何軒も並んでいる。風通しのいい街並みで寛げるような地区だ。とりあえずセルビア料理を食べようとそれの店に入る。メニューには色々書いてあったがスタッフがバーベキューがいいとお薦めしてきたのでそれと赤ワインを注文した。店内は半分テラスになっているような屋根付きの店で夕方なので少々風が入り寒いが洒落ている。

料理がテーブルに置かれるとポークグリルとソーセージ、サラミ、ポテトフライが添えられている。22時間のフライトを終え、もう出発から25時間くらい経っていたであろうか、赤ワインを一口飲み、ポークグリルを食べると、肩の力が一気に抜け落ちた。もうここがどこなのか分からなくなるような移動と時間軸、疲労感があり、状況の把握は明日からにしようと思った。しかしそんな寛いでいる間もなく、出迎えにセルビア音楽のバンドが演奏を始めた。どこかで聞いたような曲かはすぐ分かったが、ユーゴスラビアの誕生から終焉までを描いた映画「アンダーグラウンド」で始終鳴り響いていた民族音楽であった。

日が沈み満腹で店を出ると気温は一気に下がり真冬のようであった。冬服は持ってきておらず、明日からどうしようかと思ったが、足早にホテルに戻り、シャワーを浴びて寝ることにした。窓からはベオグラードの街並みが綺麗に、そして少しぼやけて見えていた。

憂鬱の推移「セルビア ベオグラード2」

成田空港まで車を走らせ20時頃に到着した。フライトは22時なので夕食を食べようとしたが、どこも空港価格と物価高で値段が妙に高い。大して食べたいものもないので吉野家で済ませて歩いていると、ちょうど横になれるスペースがあったのでごろんと寝ていた。仕事帰りなのではっきり言って寝たいのだ。これから深夜便22時間のフライトなんて最初はいいかもしれないが正直地獄だ。

しばらく横になった後、ゲートの方へ向かうとかなりの人数の人だかりだった。コロナ中はそれほど人はいなかったのだが、元に戻ったという以上に増えているように見える。なんだかこういう眺めをみていると嬉しくなってしまう。いよいよ単独で欧州へ行けるのだ。3年半前に行ったジョージアの頃がよみがえる。その旅の続きが始まると思うとコロナ前とコロナ禍の事が頭の中を駆け巡った。整理しないと何故自分がここに存在しているのか分からなくなってしまう。

時間になり機内に入ると、赤いハットを被ったキャビンアテンダントが何人もいる。今回は初めて乗るエミレーツ航空だ。機内はダウンライトで雰囲気が出ており高級感がある。航空券はいつもの金額より1.5倍だろうか、20万円もしてしまったのだが、コロナ禍中行けなかったので買ってしまった。しかもHISで、だ。なんでか分からないがHISのチケットが一番安かったのと、店舗のHISのスタッフがかなり親切で盛り上がってしまった。

飛行機はドバイ経由でセルビアのベオグラードへ向かう。久しぶりの機内はアメニティセットを貰えたり、機内食も美味しく快適な空間だった。席も真ん中の列の通路側を選択してあったので何も問題はない。約10時間のフライトを終えて、ドバイ空港に到着した。機内でははっきり言って爆睡していたのであっという間に到着してしまった。

現地時刻で朝の5時頃だったので、とりあえずコーヒーを飲みにいく。注文すると日本円で800円ほどで水も買おうとすると、こちらも800円。おかしいと思い、水は諦めしばらくカフェでのんびりしていたのだが、周りを散策して、円安と物価高の洗礼を直に受けることとなった。クロワッサン一つが800円、ハイネケンのビール2000円、キリンビールだと2800円、おいおい、どうなっているんだこれは?と驚き、友人にLINEを送り、みんなでインフレ円安について「やべー」と盛り上がてしまった。ハンバーガーショップなんてセットで注文すると普通に5000円くらいぶっ飛んでしまう。

高級店が立ち並び、多くのインド人が働き、水も買えない自分のような日本人が路頭に迷うSFになりそうな雰囲気の中、朝9時発のベオグラード行きのゲートへ向かう。飛行機までバスで向かい降りると真夏日の陽気。遠くにドバイのビル群が見える。気温は35度。ここからベオグラードまであと6時間だ。

憂鬱の推移「セルビア ベオグラード 1」

10月中旬を過ぎて秋のはずなのが今年は夏が終わらず気温も高く9月の陽気の中、セルビアのベオグラードへ向かうこととなった。旅へ向かうとなれば本来、気持ちも高揚しているはずなのだが、それは憂鬱な気持ちでの出発となった。

今年はいい歳になった親が施設に入るかどうか検討してはいたのだが、ちょうどこの時に体調を壊してしまい緊急で入院となった。今回の旅は母親が入院してすぐの出発になってしまい非常に慌ただしく、そして疲れのせいか自分の体調もあまり優れない状態であった。疲労と背中の痛みがあったため出発の3日前に整体で施術をしてもらい、コンディションを整えながら、なんとか向かえそうな状態にした。しかし、到着してから大丈夫なのだろうか、などと不安も感じたがここまでくれば行くしかないし、悪いことが起こるかどうかなんて分からないと腹に決め、仕事を夕方に終えて空港へ向かい夜22:00発のフライトに乗り込んだ。時間がなく旅先の下調べはあまりできてはいない。

今回なぜセルビアにしたのかというと、このインフレと円安、そしてオーバーツーリズムの問題を考えると、行くべきではない国が多数出てきた。スペイン、ギリシャ、クロアチアなどは観光客が押し寄せてきており、観光場所にも規制がかかっている。そして夏場は暑くて観光どころではない。

3年ぶりなので、とにかくヨーロッパへ行きたかった。理由はただそれだけなのだが、特にロンドン。ロンドンは2度、一度は短期留学もしていた為、ロンドンに戻り気持ちを整理したかった。しかし、このインフレと円安の状態で到着してからの滞在費を考えると諦めざるをえなかった。ホテルだけでも1泊3万円前後からなのだ。楽しめるはずがない。そのような状態でヨーロッパで気軽に滞在できる場所はないのだろうかと調べていると、アルバニアという国が候補に挙がってきた。

そう、バルカン半島にある国々や東ヨーロッパは物価は安い。以前行った時もクロアチアやチェコなど物価がかなり安かったという記憶がある。そこから色々なプランを考え、

ギリシャからアルバニア→ボスニアヘルツェゴビア→セルビア→ブルガリア→トルコ。

こういったプランを考えたのだが、10日間しかないのだ、さすがに無理だ。アルバニアやボスニアヘルツェゴビナに行こうとすると交通の便が多くはないようなので、今回残念ながら見送り、足早に移動する旅は控えてじっくりと1,2か国に滞在することに決めた。

バルカン半島には昔、ユーゴスラビアという国があった。独立戦争による内戦で国は解体されてしまったが、そのユーゴスラビアの首都がセルビアのベオグラードなのである。そして隣国にあるハンガリー。第一次大戦はオーストリア、ハンガリー帝国の皇太子がサラエボで撃たれたことから始まったとされるが、セルビアの豚肉の関税問題でオーストリア、ハンガリー帝国と揉めたことも一因とも書いてあった。EUに所属していないセルビアと対照的なハンガリー。その二か国を見て回ることにした。

友人にセルビアのベオグラードってどうかな?とメールすると、「昔行きましたよ。街は退廃感MAXですね!(笑)」と返ってきた。ベオグラード行きはこの退廃感という言葉を聞いたことによって決めたようなものだ。

3年半ぶりの海外は台湾へ 6(最終話)

数時間だけ寝て、起きて朝9時頃になんとか集合場所のホテルのエントランスにヘロヘロで向かう。さすがに疲れた。O君は早朝に帰ってきたのに早朝に九分へ一人で出発してしまったらしい。今日は帰国するので午前中しか自由な時間がないため、残った3人は龍山寺へ向かう。地下鉄を乗り継ぎ寺へ向かう途中で朝食を食べようと思ったのだが、時間帯が早い為マクドナルドしか見当たらず、妙に混んでいる冷房が効いた店内でハンバーガーを食べる。中国語が飛び交う朝の台湾はなんとも落ち着く。

龍山寺に到着すると日差しが強くなっておりかなり暑い。O君から無事に九分に着いたと連絡があり、こちらは龍山寺を観覧する。この暑さなのに拝観者は多くみな念仏を唱えている。寺は中国にはよくあるような寺であったのでさっと見歩いて終わってしまった。それからは特にすることもなく、3人は空港へ向かわないとならないので、デパ地下の飲食店で小籠包と牛肉麺を食べる。フライトは15時頃なのだが、O君だけは20時のフライトなので九分でしばらく遊んでいるのだろう。空港への列車へ乗り、もう遊ぶだけ遊んで満足なので、3人ともいい具合に遊び疲れた表情でつり革を掴んで窓の外の景色を見ていた。空港に到着して、それじゃまた東京でとK君と別れた。

自分ともう一人が空港で土産を買おうと物色していると、やはり空港価格、そこに円安も絡んできたので、どれも高い。とはいえ久しぶりの海外なのでパイナップルケーキを買っていく。今年の5月にコロナが5類になったばかりなので海外へ行く人はまだ多くない。土産だけでも海外からの物が渡されればパンデミックも終わりになったのだと実感しやすいだろう。フライトの出発時刻までの時間、アイスコーヒーを飲みながら寛ぐ。こういった時間さえも3年ぶりなので、自分の過去と現在が絡みあい不思議と気持ち良さでいっぱいになる。

自分は3年前に何を目指しどこへ向かっていたのだろうか。突然パンデミックにより生活が中断されてしまい、その中断が3年以上にも及んだのだ。意識が不明瞭になっていたことがここに来て分かってきたような感じだった。様々なことがフラッシュバックしてくる。空港から外を見ると飛行機が滑走路を走っている。数年前はこの景色を南米や欧米で見てたりしていたのだが、まだまだそこは遠い昔の場所ような感じさえもする。

年内に10日間の休暇が取れるのだが、どこへ行ってみようか、遠い場所には果たして行くことができるのだろうか。まだこの時、欧米などはパンデミックによる三年の月日による壁があり、とにかく遠いという印象であった。

3年半ぶりの海外は台湾へ 5

時刻は16時。全員、ホテルの部屋で各自休息をとっている。台北に来てから2日目、動きっぱなしなので時々休憩を入れながら行動をしている。そして今夜は夜市場へ行くことになっている。その前に午前中に飲んだ高山茶が美味しすぎたので、茶器の専門店に行くことにした。

エントランスでみんなと待ち合わせ、ホテルから茶器店までUberで向かい、洒落た店内の茶器を端から端まで見渡し、なんとか4000円程度の見合った急須と湯呑のセットを購入。買ったのは自分だけだったが、帰国後、茶器が欲しいと他の面々は呟いていた。日も沈み始めていて、あまり時間もないのでそこから街へ出るとその周辺は飲食店が並ぶ信義区エリアで念願のマンゴーかき氷を食べることができた。これがなかなか巨大なマンゴーで新鮮でかなり美味しかった。南国で夕暮れ時にマンゴーを食べられることがあまりにも幸せすぎるのだが、これだけに終わらず、ここから夜市へ向かう。ちなみ店の名前は思募昔(スムージー)本館。

向かった先は臨江街夜市。かなり賑わっているがあまり観光客はおらず、台湾人が多いローカルな夜市らしい。出店の料理はなかなか手を出しづらいそれが何なのよく分からないメニューが多いのであるが、台南料理の屋台があったのでそこで牛肉麺と豚肉のロースのようなものをつまみながらビールを呑む。美味い。昨日の高級店の味からするとやはり台湾のローカル店のほうが格別だ。

もう一軒、K君オススメの小籠包の店があるということで向かっていった。裏道の小道を歩いていき、本当にこんなところにあるのか、というようなところに入口だけ妙に明るいその店があった。周りが暗いから店だけ明るく目立っているのだが、入口で店員が何人かで忙しそうに小籠包を包んでいる。列ができていたのでしばらく並んでいたのだが、どうしてこんなに夏の台湾、中国、香港などの夜は気持ちが良いのだろうか。以前行った時の夏の香港や上海の夜の空気を思い出せずにいられない。この感覚はどうしようもなく自分に染み込んでしまったようで、夏になるともうどうしようもなくこの湿度と気温の中に溶け込んでみたくなってしまうのだ。

店の中に入れるとカウンターに通された。店内は広くはなく、長居するような店ではなかった。出された小籠包を一口食べて、みんなで悲鳴をあげ、ここが今回の台北で一番美味しい店に認定された。こんなに美味い小籠包は食べたことがない。何というか小籠包が生きてるようにぷりぷりしていて、熱々でやられてしまった。店の名前は「正好、鮮肉小籠湯包」来れるものならまた次回来てみたい。

そこからまたしばらく歩き今度は適当に牛肉麺の店に入る。牛肉麺を食べ終えた僕等は一度ホテルに戻る。ここからは自由行動になるのだが、O君が昨日行けなかったクラブに行きたいと昨日と同じ球技場エリアへ向かってみた。K君はサウナへ行くということでクラブへは3人で行ったのだが、時間は23時の土曜。やはり金曜の夜よりはまだ客が集まっていない。

場所を変えようかともう一件、他の場所で目当てのクラブがあったのでそちらへ向かうことにした。Uberで向かったのだが違う場所で降ろされ、なかなか場所が見当たらす、歩きながら探すとFitness Centre という看板のところに人が並んでおり並んでみるとそこがPawnshopという海外からもDJが来てプレイするところだった。中に入ると今までの夜市の雰囲気はとはガラッと変わり東京、海外のクラブにいるような雰囲気でかなり盛り上がってる。酒を呑みながらテクノミニマルの選曲で気持ち良く揺れていた。だが深夜2時を回っても目玉のフランスからのDJが出ない為、椅子で思わず寝てしまった。O君は明日、一人で九分へ行くということで遅くならないようにホテルへ戻ることにした。

外に出ると台湾の女の子二人から日本人ですか??と声をかけられ、しばらく話す。日本語は自分で勉強しているそうでかなり流暢であった。台北に来てから日本語を勉強している人が多いがそれほど日本に対して憧れのようなものがあるのだろうか。そこに男の子も来て電気グルーヴが好きなんです、なんてことを言われて盛り上がっていたのだが、もう眠すぎてUberを拾いホテルへ帰宅した。時刻は午前3時を過ぎていた。

3年半ぶりの海外は台湾へ 4

めちゃくちゃ頭が痛い。昨晩クラブで飲みすぎたアルコールのせいでかなりの頭痛で朝の集合時間にホテル1階のエントランスでみんなと会った。これから台湾の朝食をみんなで食べに行くのだが全く食欲がない。しかし、みんなに昨夜のクラブの写真を見せると、いいなー!行きたかったと羨ましがられて、こんな体調だが全く後悔はない。

朝食を食べに外へ出ると台北の夏の空が青く広がり今日も暑くなりそうだ。地元の人たちで集まる李記豆漿という店に入ると中国語が全く読めずどんなメニューなのかよく分からないが、写真などを見せて豆乳のスープと揚げパンとウーロン茶と適当に注文した。しかし、二日酔いの為、スープを飲み、パンを一口、それでほとんど終了(笑)でも後悔はしていない。味はと言えば身体が通常時であればあっさりしていてきっと美味しい朝食だったのだろう。

今日の目的地はお茶を購入するため、事前に調べた徳興茶業というお茶の卸店に行く。中は大きなドラム缶が何個も置いてあり、非常に古くからあるような建物。店長は日本語が話せて、ここから1時間くらいの試飲会が始まった。台湾のウーロン茶で有名なのは高山茶という銘柄で、ここにはそのお茶が松竹梅の種類で売られていた。お茶の淹れ方から飲み方まで色々と教えてもらい、一番高級なお茶まで飲むことができて、みんなで爆買い。というほどでもないが、結構買っていた。日本で買うよりも7割くらい安いのではないだろうか。一番良い高山茶が150g2700円くらいで購入できたが、帰国して日本のお茶専門店で見るとたった30gが2800円くらいで売られていた。なので、とんでもなく安いのだ。

お茶を買い終えた僕等はMeowvelousという友達推薦のレストランへ向かった。Uberに乗り込み東へ向かう。Googleの情報だと台湾料理というよりアメリカンな感じだったのだが、到着してみると結構混んでいてしばらく待たされた。ここで食べた料理がどれもこれもが美味しくて、それが冷やし中華みたいな麺やチキンナゲットやポテトフライなどなどジャンクな感じなのだがかなり美味かった。ジャンクの台湾アレンジなのだろうか。ここはまた行きたい。ウェイター女子に美味しかったと伝えると日本語で返事をされて、話してみると結構上手な日本語を話してきた。盛り上がって話していると毎年日本に観光に来ているそうだ。

店を出て地下鉄に乗り迪化街で降りて街を散策する。原宿のような街並みを男40代4人で歩く。洒落た書店やカフェ、洋品店があちこちにある。もうこうなったら行くしかないということでスイーツを食べに夏樹甜品という杏仁豆腐や豆花(トウファ)の有名店に入る。ここも行列ができていて、外の蒸し暑い席なら確保できたのでそこで食べていると、いきなりスコールが降り出して、それを見ながらトウファを食べていた。

なかなか雨は止まず、待ちかねた僕らは駅まで小走りで向かった。いったんホテルに戻り各自部屋で小休憩。時刻は16時。夕立をただ眺めていたりホテルの部屋で小休憩をしたり、相当楽しい40代の夏の旅行である。